筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「第十二話 ある人生」

私がキンちゃんこと浜田珠三君を知ったのは、久永知一君を通じてのことだったと思う。

お互いまだ独身の頃、私は、当時大浦寮に住んでいた久永君のところにしばしば出入りしていたが、そこで浜田君と顔を合わせたのが、交際の始まりであった。
その頃浜田君は芳雄製工所の設計係だったが、大浦寮の敷地内の社宅に住んでいたようで、久永君の部屋で一緒に麻雀などしていると、学齢前くらいの男の子が、食事時を知らせに来ていたので、私はてっきり彼の子供だろうと思っていた。そのくらいの子供がいてもおかしくない程、キンちゃんはふけて見えた。
その頃すでに頭の毛が薄くなっていたし、社宅住まいをしていたので、私が間違えても無理はなかった。後に分かったところでは、なんと私より一つ二つ年下、われわれと同様に独身だったのだ。

彼が社宅に住んでいたのは、年老いた父親をはじめ、戦争未亡人の姉と、その子供二人を扶養していたからであった。
聞くところによれば、彼の父親はもともと江戸っ子で、戦前は帝国ホテルだったか、東京の一流ホテルのシェフをしていたとのこと。戦時中に物資不足の東京から移って来たようだが、飯塚でもその腕を振るうような場所は無く、ときたま社宅の奥さん達に、フランス料理を教えるくらいで、隠居暮らしのようであった。
お姉さんは、ご主人がさきの大戦で戦死し、二人の子供を連れて、実家である浜田君の家に、身を寄せていたものらしい。しかし、若い浜田君の給料で一家五人が暮すのは容易なことではない。そんなことで、お姉さんは街の料亭で、仲居さんをしたりしていたようである。

浜田君一家が本社前社宅に住んでいた頃、心無い社宅雀が、お姉さんについて、あらぬ噂をしていると耳にしたことがあった。その時、浜田君はさぞかし切ない思いをしたことだろうと思われたが、事が事だけに彼を慰めるのも憚られ、私はひとり心を痛めたこともあった。しかし、私の心配をよそに、彼はそんなことは全く知らぬ気に、いつも明るく振舞っていた。

名前は珠三と言うのに、みんなが彼のことをキンちゃんと呼ぶのはどうしてだろうと、不思議に思っていたが、彼と酒席を共にしたとき、下戸の彼は僅かな酒に、顔を真っ赤にし、得意の柳家金五楼の物まねを始めたことで、これがキンちゃんの名前の由来かと、はじめて納得したことである。

その後、独身仲間が次々に結婚して行く中で、老父を抱え小学生の姪と甥の生活を支える彼の暮しに変化はなかった。しかし、そんな苦労をおくびにも出さず、いつも明るい笑顔でバレーボールをしている彼の姿が見られたことであった。

あれは昭和三十年頃だっただろうか、戦後の混乱期も終わり、世間も落ち着きを取り戻し、私達の生活にもいくらかゆとりが感じられるようになってきた。浜田君の家でも姪も甥も中学生になり、遠からず一人立ちする日も見えてきたので、結婚してはと勧めてみたが、彼は私に感謝の意は表したものの、話には乗ってこなかった。彼の家庭では、まだ戦後は終わっていないのだろうと思い、私もそれ以上は勧めることを諦めた。
その後も、彼には姪甥二人の父親代わりの暮しが続いていたが、ある日突然お姉さんが、脳卒中で急死する不運に見舞われ、二人の母親役まで背負うこととなってしまった。
もっとも、姉が亡くなる前から、家事は中学を卒業した姪がしていたので、格別不自由はなかったが、姪、甥二人の行く末を導いてやる責任が、彼一人の肩に重くのしかかってきた。

娘に先立たれた彼の老父は、この頃から急に老衰し、しきりと生まれ故郷の東京へ帰りたいと言い出したようである。
当面便利だからと、中学出の姪をいつまでも家事に縛りつけていていいものか、間もなく中学を卒業する甥の就職はどうするか。石炭の斜陽化で揺らぐ彼自身の行く末とともに、彼には思い悩むことが、余りにも多かった。
私自身は当時、文書課の課長代理として、組織との協定にもとずき職員の就職斡旋に走り回ることの多い日々で、そうした彼の悩みを思いやる余裕も無かった。

そんなある日、彼の姪が社宅の庭に出来たものですと、無花果(いちぢく)を届けに来た。対応に出た私は、久しぶりに見る彼女が、見違える程美しく華やかな乙女に成長しているのに、びっくりしたことであった。それがきっかけで、浜田君の家族のことなどが話題となったとき、家内が「おじいちゃんがしきりと東京へ帰りたがっているそうですよ。」と言う。
ちょうどその頃、わが社の系列に入った東京樹脂㈱から、設計技術者を求められていたことを思い出し、私は早速、浜田君に東京樹脂㈱へ転出する話を持ちかけた。
彼自身も東京生まれの東京育ちではあるが、飯塚に来てすでに十五年以上にもなり、こちらでの友人も沢山出来て、去り難い気持ちが強いが、老い先短い老父の願いを遂げさせてやりたいから、その話は是非進めて貰いたいと言う。
東京樹脂㈱との折衝もことなく終わり、家族を挙げて東京へ引き越すこととなったある日、浜田君の老父が、無花果の枝を数本持参して、わが家の庭先に挿し木してくれた。その折、「おかげで婆さんの墓参りがしてやれます。」と私に頭を深々と下げられたことであった。

昭和三十五年九月、浜田君一家はお姉さんの位牌を抱いて、東京へと引き揚げて行った。
東京樹脂㈱での待遇は、同社の規定によれば、当初私が期待したようにはいかず、浜田君にとっては満足のいくものでは無かったようだが、私に苦情を言って来ることもなかった。幸いにして、麻生から先に赴任していた小林常務が、そのあたりのことを気にかけられて、浜田君の姪も甥も同社で採用し、暮しのたつようにしてくださったようであった。

彼が上京してから、私は東京出張の折一、二度彼と会う機会があったが、昔ながらのにこやかな彼の笑顔を見ることが出来た。
昭和四十二年の会社分割で、私は麻生セメント㈱へ移籍し、麻生産業傘下に残った東京樹脂とは、縁がなくなり、浜田君とも、年に一度の年賀状を取り交わす程度の交際となっていた。

その後東京樹脂㈱は、過激な労組に揺すぶられ、次第に経営は傾き、会社は解散することとなったようである。
そんな噂を耳にして、浜田君はどうしているだろうかと、思わぬものでもなかったが、当時は私自身が、政策科学研究所という新しい職場で、慣れぬ仕事に追われる毎日で、そのまま月日が経過して行った。

昭和五十一年、私は政策科学研究所を退き、サンケイ系列の日本エグゼクティブセンターに勤務するようになったが、その頃、昔麻生で懇意にしていた土谷真澄さんが上京来訪され、旧交が復活することになった。そうしたことから、在京の人々で麻生OB会を催そうではないかと言うことになった。
私が世話役となり、サンケイ会館のレストラン・サンフラワーで在京麻生OB会が開催されたが、その席で久しぶりに浜田君に会うことが出来た。
彼の話では、すでに姪も甥もそれぞれ結婚し、彼自身は、青物横町のマンションに住まい、芝の設計事務所に勤めているということであった。
わが子のように面倒を見てきた姪、甥が巣立って行って、一人暮しでは淋しいことだろう。もう自分自身の幸せを求めて、いまからでも結婚相手を探したらと、勧めてみたが、話に乗って来ない。
ときにユーモアを交えた穏やかな語り口は、昔と変わりないが、会話が途切れた一瞬、彼の表情に淋しい陰りがよぎったように思われたが、あれは私の気にせいだったのだろうか。

その後お互い会う機会も無かったが、暫くして彼が急死したとの知らせを受けた。脳卒中だったのか心筋梗塞ででもあったのか、あまりにも早い彼の旅立ちに愕然とした。
葬祭場でのお通夜にお詣りしたが、祭壇に飾られた彼の遺影は、霊前に頭を垂れている姪と甥に、生前のあのなごやかな笑顔で、無言の微笑みを投げかけていた。
お通屋の帰りの夜道で、「浜田さんは、独身で遺族も居ないのだから、永年かけてきた厚生年金も掛け捨てですね。考えてみれば、どこまでも他人につくすばかりの生涯でしたね。」と誰かが話すのが聞かれた。
彼の死からもう十数年、今では昔仲間の話題にも登場することもなくなってしまった。
(平成十年一月)

ramtha / 2015年8月27日