筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

第三十二話「マリオネット」

文学部教育学科などおよそ炭坑会社とは無縁の学問、それも一年半での繰り上げ卒業で大学を押し出されたとあっては、まともに修めたとは言えない。そんな私を単に給費生という因縁で採用した会社は、私の使い途に苦しんだ事であろう。
 
入社後八ヶ月ばかりの実習の後、私が配置されたのは本社企画室であった。企画室という組織は多分太賀吉社長の壮大な経営構想から設けられたものであったろうが、何処の会社でもこうしたスタッフ部門というものは、ラインに対して強い発言力を持ち得るだけの、豊富な実務経験と高い見識を備えた人材を得なければ機能しにくく、ともすれば会社の中で浮き上がり、会社人事の控え室となりがちなものである。
 
当時の企画室長は、南方から戦後引き揚げてこられた技術畑の麻生五郎重役であり、技術課長は当時麻生採鉱部門の俊才城戸義雄さんであったから、駆け出しの私などには分からぬことではあったが、技術部門については、その機能を十分果たしていたように思われる。
 
しかし事務部門の総務課長は、横浜正金銀行(現在の東京銀行)から招かれた堀江悦三さんであり、統計課長はこれまた福岡高商(現在の福岡大学)で教鞭を執っておられたという渡辺幸生さんであった。お二人ともその閲歴から言っても高い見識と広い視野を備えておられたが、なんと言っても炭坑での実務経験が無かったので、戦後間もない狂乱怒濤期のわが社の中では、企画室の事務部門はどうも浮き上がった存在となっていたようだ。
 
しかし、これは当時入社直後の若造の卑見に過ぎないから、両課長は、あるいは私などの知り得ない所で、会社経営の枢機に参画しておられたのかも知れない。私はこの企画室総務課で毎日、新聞の切り抜きなどしていたが、まだ独身の暢気さで、自分の日々が会社の仕事から些か遊離した感じはあったものの、さして気にならなかった。
 
昭和二十一年一月機構改革があり、企画室の総務、統計両課は統合され事務課となり、課長には吉鹿さんが文書課長から移って来られた。そして日ならずして私は労働部厚生課へ転ずることとなった。企画室事務課が本来の使命であるスタッフとしての機能を発揮するには、専門知識も実務経験もない私など不要とされたのは当然のことであった。
 
厚生課は従業員の福利厚生に関する業務を担当するわけだが、社会保険関係の事務は小川義雄さん以下、保険事務に堪能な四、五人の社員が毎日忙しそうに事務処理をしていた。
 
私は好人物で中年の八木さん、背の高い田中君という女子社員と三人で、映画会・運動会などの慰安行事や、太山荘での社員研修の世話などを担当していた。
 
今までの企画室での新聞切り抜き(今から考えてみると自分の心構え次第では随分勉強になる有り難い仕事だったのだが)より、会社の事業活動に一歩近づいた感じではあったが、事務所内の隣の列に机を並べて、毎日活発な論議が交わされている労務課などを見ていると、私のやっていることなど、会社の仕事とは言うものの、ほんの周辺部の、あってもなくても大勢には関わりのない仕事に思えたことであった。
 
しかしそんな不足を言ってみても、とりたてて何をやらして貰いたいなど、口幅ったいことを言えるような専門知識も技能もない身であってみれば、与えられた仕事に専念するほかはない。
 
その頃は終戦後間もない頃だったので、中央の相当な芸能人なども、荒廃した東京での芸能活動だけでは食っていけず、ずいぶん地方へ、いわゆるドサ回りしていた。ことに戦後復興のために傾斜生産の対象となった石炭産業には、食料の特別配給(加配米)などがあったので、ギャラはともかく、飯が腹一杯食えるからというので、炭坑巡りをする芸能人が少なくなかった。今では考えられないようなことだが、そんな時代であった。
 
そういう中で、どこからかマリオネットの結城一座が筑豊に来ていることを聞きつけた私は、何とかしてその一座を引っ張ってきて、炭坑の人々にマリオネットを見せてやりたいと考えた。炭坑福祉協会を通じて折衝したところ、考えられないような安いギャラで応じてくれるという。(もちろん各炭坑を巡回する間は腹一杯食べさせるという条件付きではあったが)
 
日頃文化の香りに恵まれない炭坑の人々に一流の芸術をと気負い立った私は、早速この企画を内田課長に相談した。ところが課長は昂ぶった私に水をかけるように「それはやめなさい。」と言う。私は一座の上演プログラムを広げ「こんな芸術性の高い人形劇など炭坑の人には二度と見る機会は無いでしょう。こう言う時代だからこそ筑豊の片田舎まで彼らが来てくれるのです。世の中が落ち着いたら彼らがやって来ることなど絶対にありません。」と半ば興奮気味に力説した。
 
すると課長は「その芸術性が高いというのが困るのです。炭坑の文化水準に合わないでしょう。折角慰安修養費を使って催しても、皆が喜んでくれなければ無意味です。それに、そんな高名な一座に来て貰って観客席がガラガラと言うのでは、相手に対しても失礼でしょう。」と言う。
 
私は入社以来初めての自分の企画だったから、何としても実現したい一念で食い下がった。興奮の余り、課長に対して随分失礼な暴言も吐いていたようだ。傍らで聞いている八木さんなどオロオロしている。
 
内田課長はかねて温厚な方であったから冷静に対応されているが、生意気盛りの私の声はだんだん大きくなる。隣の課の連中などにとっては対岸の火事、その成り行きを面白そうに眺めているようだ。
 
それを感じると、私も下手に引き下がれない。課長も周囲を意識してか自説を枉げられない。そんな状況を見かねられたのか、労働部長席から高木部長が声をかけられた。
「佐藤君、君はそのマリオネットというものを見たことがあるかね。」
「はい、学生時代に日劇で見たことがあります。」
「それは子どもが見ても面白いかね。」
「マリオネットは舞台の上の隠れた横木の上に人形師が乗り、上から操る細い糸の動きで人形が動く仕掛けです。だから遠くから見ていると、人形がひとりで動いているように見えるので、子どもはきっと喜ぶに違いありません。」
「内田さん、君の言うように炭坑の人には上品過ぎるかも知れないが、子ども達が珍しがって見れば、それでいいじゃないか。炭坑(やま)の人達にうけるかうけないか、試しにやらせてみてはどうかね。」
 
日頃口数少なく難しそうな顔をして、恐いとばかり思っていた高木部長から、思わぬ助け船を出して頂き、私の企画は日の目を見ることとなった。
 
そういう経緯があっての上演であったから、準備万端手抜かりのないように心を配ったが、観客の集まりが気になってならない。しかし駆け出し社員の悲しさ、観客動員をかけたくても、それを頼んで回る手づるも無い。気ばかり焦るがどうにもならずイライラしているうちに、いよいよ一座が乗り込んで来た。
 
初日は本社従業員を対象に、本社の会館で上演された。事前に本館廊下の掲示板に案内掲示をし、朝の会報伝達で各職場へも伝えて貰うなど、出来るだけの宣伝に努めたことは言うまでもない。その他実習生時代の仲間をはじめ、自分の知っている限りの人に頼んで回ったりした結果、超満員とはいかぬまでも観客の入りは相当なものとなった。
 
次に気になるのはその反応である。果たしてみんなが喜んでくれるだろうか。しかし舞台で繰り広げられる人形劇の妙技に、度々大きな拍手が送られ、時にはすっとぼけた人形の演技に爆笑が湧き、マリオネットの上演は大成功裡に終わった。
 
高木部長は最後まで観覧して頂いた上、マリオネットの絡繰(からく)りを見たいと言われて舞台下まで来られた。私が座長にその意を伝えると、座長は快く応じてくれて、上演中、人形遣いの姿を隠すために張り巡らされていた黒幕を取り外し、今一度マリオネット操作の実演を見せてくれた。
 
それは私も初めて見るものであったが、一枚の板から吊り下がる数本の糸を巧みに操り、まるで生命あるもののごとく人形が動き、泣き、笑う妙技には感嘆のほかなかった。部長や、初めはこの上演を危虞していた課長からも「こんな素晴らしいものは初めて見た。」と言われた時は、私自身ほっとしたことであった。
 
その後マリオネットの一座は社内各炭坑を巡回上演したが、どこでも大入り満員の大盛況、炭坑の福利担当者からは「佐藤さん、いいものを引っ張って来ましたね。こんなに皆が喜んでくれたことはありませんよ。」と言われ、私は大いに得意であった。
 
そして「課長になんか何が分かるか」と言った思い上がった気持ちであった。そうした驕り高ぶった思いは、当然日常の言動にも出、まわりの人から見れば、まことに見苦しいことであったに違いない。しかし当時の私は、若気の至りと言うのであろうか、そんなことなど思ってもみなかった。
 
後日そんな私を見かねてのことであったろう、席を並べていた八木さんから
「あの時は課長は本社から押しつけられたマリオネットの上演に、炭坑(やま)の担当者が快く協力しないのではないかと随分心配されていたのですよ。貴方が席を外されていた時、何度も炭坑(やま)の労務係長に電話して、応援を頼んでおられましたよ。」と聞かされた。
 
しかしその時も、「なあに部長が上演に賛成されたから、部長の手前、課長も一生懸命やってるポーズをしただけさ。」としか思わなかった。
 
今から思えばまことに度しがたい驕慢と言うほかはない。入社後初めての企画で私が挫折しないよう、私のプライドを傷つけないよう、密かに応援して頂いたのに、その課長の親心を理解し得なかった自分の了見の狭さが今になって悔やまれる。
 
後年、内田さんは恵まれざる晩年を過ごされ、不運の死を遂げられたとの噂を耳にしたが、マリオネットの演ずる杜子春の場面を思い浮かべる度に、私の胸は痛んでならない。
 
(註)傾斜生産:石炭、鉄、肥料など基礎的物資の生産をまず確保した上で、各部門の生産を拡大しようとする方式。戦後の日本経済を緊急に回復するための政策として提案された。 (広辞苑より)
 
(平成二年)
 

ramtha / 2011年3月28日