自分が生まれたときのことは、自分では分からない。幼い時の記憶は、みんな後で聞かされたことである。
私は、大正11年7月29日、真夏の暑い夕方、北九州市八幡区(当時の八幡市)にあった、八幡製鉄所の官舎で生まれた。生まれた時産声をあげなかったので、産婆が両足をもって逆さに吊るし尻を叩いて、やっと産声をあげたということである。生涯の病弱な体質は、この時から始まっていたようである。産湯の水が入って中耳炎を患い、生後一ヶ月にもならぬうちから医者のお世話になったとも聞かされた。
一番上の姉を生み、兄を胎内に宿していた母が坂道で転び、それが原因で外傷性脊髄カリエスを患ったそうである。その後三人の女の子と私が生まれたが、三人の姉はいずれも夭折し、母の病前に生まれた兄と姉の他では、私だけが辛くも生き残った。母体の健康が子どもの体質を端的に左右したということであろうか。
幼い時は病気に次ぐ病気で、母は片時も心が休まることは無かったらしい。当時は今と違って抗生物質というような便利な薬は無く、ちょっとした腹下しから疫痢や自家中毒を患い、バタバタと死んで行くのが珍しくない時代であった。そういう時代に私のような弱い子を育てる親の苦労は、今の人には想像もつかぬものであったに違いない。おまけに健康保険などというありがたい制度も無かったので、経済的な負担も並大抵では無かったであろう。
その頃のかかりつけの松見病院では、「この子は二十歳までもてるかどうか。」と言っていたと言うことを後になって母から聞かされた。
豆腐売りのラッパの音が聞こえてくる黄昏時、松見病院の病室で、天井から吊り下がっている裸電球ををみつめて、ただじっと寝ている、あの侘びしい気持ちは、五十余年経った今でも忘れることができない。
妹のルツ子と一緒に入院したこともあった。隣の病室から壁越しに「お兄ちゃん早くよくなって日曜学校(バプテスト教会の日曜学校に行くのがその頃の楽しみであった)に行こうね」と語り掛けてきた妹の声が今も耳底にひびいてくる思いがする。病室の窓ガラスの桟に白く雪が積もった朝、私の呼びかけに返事は無かった。「ルツ子は神様の所へ行ったんだよ。」と父から知らされた。四歳の幼児に二歳の妹の死がどういうことなのか、分かるはずも無かった。ただ毎日繰り返された壁越しの呼びかけができなくなり、ひとしお淋しい想いをしたものである。
すぐ上の姉禎子、私の生まれる前に病死していたので、もちろん記憶に残るものはない。またその上の姉愛子は、小学校一年の時に病死した。それは私が三歳の時で、それまでに一緒に遊んで貰ったこともあったのだろうが、全くと言って言っていいほど思い出がない。
いずれにしてもその頃のわが家は、思えば赤ん坊の誕生と幼児の病死とが、時を分かたず繰り返されていたわけで、両親の多忙と心労はすざまじいと言う他はない。「子を持って知る親の恩」というが、孫を持つ身となって漸く亡き両親の苦労に思いを致すというのも、愚かの極みである。
こうして両親の苦労を思うと、頑健と言えぬまでも、私自身のように生死の間をさまようような大病をすることもなく、まずまず無事に成長してくれた子ども達に恵まれた自分は、まことに幸せであったとしみじみ思う。願わくば、子ども達もそれぞれ健康な孫に恵まれて、わが子の病気で骨身を削るような思いをする事のないように祈らずにいられない。(昭和五十三年)
ramtha / 2011年4月30日