私が四、五歳頃のことと思うから、昭和の初め、父はそれまで勤めていた八幡製鉄所を退職し、西南女学院の教師となり、住まいも製鉄所の官舎を出て、板櫃川(いたびつがわ)の向こう岸に新築した家に引き移っていた。荒生田(あろうだ)の電停から北に延びる大通りがあったが、それを右に曲がった田圃の中にその家はあった。また大通りを真っ直ぐ五条橋(八幡ではどういう事か京都のように三条、五条、七条といった地名と橋があった)を渡って行くと、左手に製鉄所の職工官舎、右手に判任官官舎、そして左手奥に高等官官舎があった。それらの官舎に取り囲まれる形で、大通りの交差点が広場になっていた。わが家からほど遠からぬ所であったし、官舎の子どもに友達もあって、よくその広場に行って遊んだものである。
自動車など滅多に通らなかったその頃の十字路は、どこでも子ども達の遊び場となっていたが、その広場には、しばしば安物の茶碗やタワシなどの日用雑貨を売る露天商が店を出したり、子ども相手の紙芝居や、ガマの油売りなどの大道香具師、ときには支那手品などがやってきたりした。紙芝居にも心を惹かれたが、なかでも支那手品の玄妙さに心を奪われたものであった。
ちゃんちゃん帽子にどじょう髭をはやし、ダブダブの支那服を着た男が、赤い布をかぶせた台を路上に据えて口上を述べはじめる。
「フシギナフシギナ支那手品アルヨ。ミンナ見ルヨロシ・種モ仕掛モナイ、フシギナ手品アルヨ。ミンナミンナ良ク見ルアルヨ」
広場で遊んでいる子どもはもとより、道行く職工さんや、おかみさん連中、赤ん坊をおんぶした子守娘、自転車を押しているご用聞き途中の小僧さん等ぞろぞろ集まって来て回りを取り巻くと、手品師は下げてきたトランクの中からお椀を三つ取りだして台の上にふせる。
「コノトーリ種モ仕掛も無イアルヨ」
と言いながら、お椀を一つずつ取り上げて内側を見物人の方に示す。次に
「ヨロシアルネ、サアコノ中ニオ金入レルヨ、イイアルナ」
と言いながら、その一つに一銭硬貨を入れてお椀をふせる。さらにふせてある三つのお椀のうち、今硬貨を入れたお椀だけもう一度開けて見せ、
「ココニ一銭アルネ、良ーク覚エルヨロシ」
と言ってふせ、
「サア、良ク見ルネ、良ク見ルネ」
と言いつつ三つのお椀をふせたまま、台の上をすらせながら右に左に二三度入れ換える。
「サア、オ金トコニアル。アテルヨロシネ。アテタ人オ金アゲルネ。オ客サンアタラナカッタラ、ワタシ、オ金イタタクネ。サアサア、トコニアル。ミンナミンナアテルヨロシネ。」
と叫ぶ。見物人の中からお金を出して試してみる者が出るが、絶対に当たらない。立ち並ぶ大人の足の間から頭だけ出して覗いている私も、そのお客の指さすお椀の中に確かに硬貨が入っている筈だと思うのに、
「残念アルネ。コレニオ金ナイアルネ」
と言いながら、手品師が開けて見せるそのお椀の中には何もなく、次に開けてみせる隣のお椀の中に先ほどの一銭硬貨は入っている。
「モウ一度ヤルネ。今度ヨークミルヨロシネ。」
と手品師は二度も三度も試み、見物人も入れ替わり立ち替わり挑戦するが絶対に当たらない。やがてお客が少し飽き始めると手品師は別の手品を披露したり、連れてきた女の子にトンボ返りなどの曲芸をやらせて、見物人から投げ銭を集めて暫く時間を稼ぐ。まわりの見物人がその間に次第に入れ替わって、あらかた代わってしまった頃またはじめの手品から繰り返す。
まわりの大人達は、次々に集まってきては立ち去って行くが、手品の不思議さに魅入られた私は、そこにしゃがみ込んだまま動かない。やがて広場に漂いはじめる黄昏の冷気にハッと気がつき、あわててわが家に戻っては母にひどく叱られたことも幾たびがあった。
今では日常大道香具師を見ることも無くなったし、支那手品に至っては全く見かけなくなったが、あの頃の時代というのはどういう時代だったのだろうか。今して思えば、当時中国は清朝滅亡後の混乱期であり、日本も世界的経済恐慌の嵐の中で喘いでいた時代だったのだろう。世渡りの下手な父が、製鉄所の人員整理で転職を余儀なくされたのもその時代であった。
そう言う世の中のことは幼児の私には分かる筈も無かったが、晩秋の冷たい風の吹く異国の路上で、暗くなるまで曲芸を続ける支那手品の親子の姿は、うら悲しい風景として、今も私の脳裏に焼き付いている。街にサーカスの唄が流行ったのも、その頃の事ではなかったろうか。(昭和五十四年)
ramtha / 2011年4月25日