筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

第十話「骨皮筋衛門の一勝」

戦後制定された祝祭日では、九月十五日が敬老の日となっているが、私の子どもの頃は特に敬老の日などというものは無かった。それがどういうことでか、私が通った明治小学校では、五月五日の端午の節句(今では子どもの日となっているが)に毎年敬老会が行われていた。当日は自動の祖父母なでおお年寄りの方を招いて学芸会を催し、その後一年生から六年生までの男子を東西二組に分けての勝ち抜き相撲が行われた。

小学校でも子どもの成長には個人差があって、下級生の大きな子が上級生を次々に負かして喝采を浴びるようなことも度々あった。
私は「骨皮筋衛門」とあだ名されるほど痩せて非力だったので、日頃相撲を取らされてもついぞ勝ったためしが無い。だから父兄や全校生徒の環視の中で土俵に上がらなければならないこの敬老会の相撲は、最も嫌いな催しであった。とくに六年生のときは相手方の五年生に安川国雄君という体格も大きく、なにより相撲の強い子がいたので、その子に負かされなければならないかと思うと、まことに気が重かった。同級生に負けるのならともかく、下級生に投げ飛ばされるのを、全校生徒に笑われるくらい恥ずかしいことはない。負けるのは仕方が無いとしても、せめて余り見苦しい負け方だけはしたくないものだが、などと思い悩みながら取り組みの進行を土俵の下で待っていた。

一年生の一番小さい子同志の取り組みから始まって、どんどん進んでいく。一番毎に、応援の歓声が五月の空にどよめき、勝った子は誇らしげに勝ち名乗りを受ける。取り組みは次第に進行して、いよいよ問題の安川君が土俵に上がった。彼は予想通り、こちらの五年生を全部なぎ倒して、とうとう六年生を相手にとることになった。
彼がこの日六年生を何人倒すかということが、全校生徒の最大の関心事であった。その彼に負かされるであろう六年生の中でも、最も簡単に投げ飛ばされると予想されるのがこの私である。まだ、私の順番までには、二、三人いるのだが、もう心臓がドキドキして落ち着かない。土俵の上ではその安川君が足を高々と挙げて見事な四股を踏んでいる。それを見ただけで私などは萎縮してしまう。

土俵を取り巻く父兄性と全員の目が彼に集まっている。あの全員の目が、後何分かしたら私の見苦しい負けっぷりを嘲笑するのだ。そう思っている時土俵の上で意外な事が起こった。体格こそガッチリしてはいたが、六年生で一番小さな永島君が、大方の予想を裏切って安川君を土俵の外へ押し出してしまったのである。ドッと挙がる歓声の中で「ああこれでもう下級生に負けなくてもすむのだ」と胸をなで下ろしたものであった。
永島君はその後二人を倒したが、同級生の野口君に負け、野口君はサラに二人負かしてとうとう私の順番が回ってきた。野口君は私よりも身長は低かったが、力が強くて今まで何度相撲をしても、いつも勝負になったことはない。しかし同級生だから負けても恥ずかしいこともないと、楽な気持ちで土俵に上がった。

立ち会いにパッと四つに組むと自分の身長を利して鯖折りに出た。しかし相手は強く、こちらの腰は伸びきって危うくつま先立ちにこらえる。ワァワァという声援の中で、歯を食いしばって頑張っているうち、もう力を出し切ってしまったと思って瞬間、どうしたはずみか野口君の方が膝から崩れ、自分はその上にのしかかるようにして倒れた。初めて相撲に勝った興奮で何が何だか分からない状態で土俵を下りると、担任の藤井先生が心配顔でかけよってきて「大丈夫か」と声を掛けながら水を飲ませてくれた。冷たい水を飲みながら仰ぐ空に白い雲がポッカリ浮いていた。

その後の取り組みでは、すぐに負けてしまったに違いないが、相手が誰であったか、どんなふうにして負けたのか、その後のことは皆目記憶がない。(昭和五十四年)

第十一話「餅つき」

 

 ⇒第十一話「餅つき」

ramtha / 2011年4月21日