現在の学校制度は、六、三、三、四制になっているが、私達の頃は、六、五、三、三制で、中学五年卒業後さらに進学する者には、高等学校から大学へ進む者、高等商業や高等工業、医専、歯科医専などの高専へ進む者、及び陸士や海兵などの軍人への道を歩む者というように、いくつかのコースがあった。
また、私立大学には、殆どが予科を併置し、中学、予科、大学学部と進むことになっていた。このいくつかのコースのうちで高等学校、大学予科と陸士、海兵には中学四年からも受験できることとなっていた。それで進学を志す者は、まず四年からこれらの学校への入試に挑戦したものである。
私が学んだ小倉中学は、全国でも有数な進学校で、その受験勉強のすさまじさは有名だった。当時小倉中学では一クラス五十名、一学年五クラス編制となっていたが、四年になると生成の上位五十名を一クラスに集め、四年からの受験のために、朝礼前一時間、放課後さらに一時間の特別授業が行われた。
特に私達の時には、昭和十三年という戦時色濃厚な世相を反映して、軍人志望者急増したため、高校受験組と陸士、海兵受験組と二クラスが設けられた。
私は高校受験組に編入されたが、一学期の始業式の日に、学年主任の甲斐先生に呼ばれて次のような注意を受けた。
「君の成績なら四年からの高校入学も難しいことではないと思うが、問題は身体検査だ。世の中が次第に戦時体制になり、去年から高校の入試でも身体検査が重要視されるようになってきた。その点が心配だ。君は一年から三年まで毎年病気で長期欠席しているが、せめてこの一年間は健康に気をつけて皆勤して欲しい。今年皆勤であれば、以前は病弱だったが現在は健康になったという証明になり、入試の際、ずいぶん有利になると思う。」と特に皆勤するように諭された。
私自身も日頃の新聞記事などから、うすうす感じていたことではあったが、先生からの注意で改めて入試の厳しさを思い知らされ、なんとしても健康を維持し、今年一年は皆勤しようと決意した。
皆勤を果たすには、なんといっても風邪と腹痛が敵である。皮膚の鍛錬のため乾布摩擦や入浴時の冷水浴を始めた。胃腸障害を起こさぬよう、なるべく甘いものを我慢したり、なんともなくても毎日消化剤「わかもと」を服用したりした。
健康維持には充分な睡眠が大事なのだが、受験勉強のためには、そうそう十分な睡眠を取るわけにはいかない。ただ睡眠に少しでも時間が取れるように、三年生までやっていた家庭教師をやめてしまった。
雨に濡れるのは風邪ひきのもとだから、少しでの空模様の怪しい時は、無駄になっても傘を持って登校するなど、あの一年間ばかりは自分ながら細心の注意と緊張をよくもまあ続けたものだと思う。こうした一念を神も哀れに思し召したのか、奇跡的にこの年だけは皆勤することができた。受験組の三学期は短く、一月末で終わったが、一年間の緊張が緩んだのか、途端に発熱して寝込んでしまった。
この時の発熱はたいしたことはなく、一週間ぐらいで快復したが、病み上がりの身体で福岡高校の入試を受けることになった。一次の学科試験は、国漢、英語、数学および日本歴史の四科目であったが、幸いにしてパスする事ができ、二次試験の口頭試問と身体検査となった。
口頭試問はなんなく通過したが、身体検査では、ごく少数の生徒共に、翌日九大病院で再度精密検査を受けるように申し渡された。かねて予期せぬことではなかったが、さすがにガックリきて、博多から小倉に帰る車中では、外の景色も目に入らない。帰宅してその結果を話すと、母はすぐさま私を連れて戸畑の宮下先生を訪ね、事情を話してくれた。先生は夜分突然の訪問にもかかわらず、早速レントゲン写真を撮り、
「私が添え書きを書いてあげるから、このレントゲン写真と一緒に九大病院へ提出しなさい。今では胸部もすっかり良くなっているから心配しなくてもいいよ」
と力づけて下さった。奥様も玄関まで送って来られて、「気胸で来られていたのは、つい先頃のような気がするのに、もう高校入学なのね。早いものだわ。学科試験は合格したのだからもう大丈夫よ。明日は安心して行ってらっしゃい。」とやさしく励まして下さったことではあった。
入試合否の判定の中身は知るべくもないが、私としては宮下先生の添え書きのお陰で合格できたものと感謝している。
先生ご夫妻は不幸にして、昭和二十年の北九州大空襲の夜、自宅の防空壕に直撃弾を受けて、ご一緒に亡くなられてしまった。ご恩の万分の一も報いる事のできなかったのは、かえすがえすも残念でならない。
また私の母は今で言う教育ママのはしりとでも言うべきかも知れないが、この夜の事を思い出す度に、その果敢な行動力には敬服せざるを得ない。まことにすさまじい母ではあった。(昭和五十四年)
第十七話「性格改造」⇒https://trigger110.net/archives/1070
ramtha / 2011年4月14日