高等学校入学とともに私の生活は一変した。それまでの親許での生活から、福高の寮に入り集団の中で起居するようになったのがその第一である。今までは衣食すべて母が細心の注意を払ってくれていたが、一切を自分自身で処理しなければならなくなった。下着の洗濯や脱ぎさしはなかなか大儀なので、ややもすれば垢のついたまま何日も同じ下着をきている有様であった。
高校に入学したのは昭和十四年の春で、満十六歳に過ぎなかったが、寮生活の中で酒や煙草を習ってしまった。私の父は若い頃ヘビースモーカーだったそうだが、私が物心つく頃はすでに禁煙しており、わが家で煙草の匂いを嗅ぐことは無かったが、たまに来客が煙草の吸い殻を火鉢の灰の中に差し込んでいったりすると、それを抜き出して火にくべてみたりするほど、その匂いが好きだったので、たちまち煙草の虜となってしまった。
酒の方は味が良いなどとは思わず、むしろ苦いものだと感じたが、禁酒の家で育ったせいか、飲酒の雰囲気の中に、わが家にはなかった未知の世界が広がるような気がしたのであろう、急速に酒に慣れ染んで行った。
こうして健康には決して良くない、酒、煙草に親しんだにも拘わらず、あれ程病弱であった私が、不思議と病気をしなくなった。ちょうど子どもから大人への変わり目で、次第に抵抗力がつく時期でもあったのであろうが、一つには、あまりにも神経質な母の過保護から解放されたのが良かったのかもしれない。また、寮の食事では好き嫌いにかかわりなく、出された物を食べるしかなかったことも、その一因となったのであろう。
中学までは病気がちであったことから、私はよろずに引き込み思案な性格であった。小学校の一年生のとき、学芸会の壇上で、一言も喋れず立ち往生して、全校生徒の物笑いになって以来、人前に立って喋ることに極度の恐怖感を抱くようになってしまった。
皆の前で上手に歌ったり、見事な台詞回しで劇の主役を演じたりする同級生が羨ましくてたまらなかった。自分も心の隅では、そういういい格好をしたくてたまらない願望が強烈にうずいていながら、現実にはそれができない自分に、しばしば激しい自己嫌悪を感じたものである。
中学校三年の頃から、こんな性格ではいくら勉強ができても、世の中に出て一人歩きはできないと、秘かに思い始めていたので、高校入学を機会に自分の性格改造をしようと思い立った。
そこで、クラブ活動では、運動では卓球部に入ると共に、文化活動では自分の最も苦手とする弁論部を選んだ。当時の福高弁論部には、三年生に楠田洋(楠田政経研究所長)、原口隆(全鉱連委員長)、二年生に岩猿敏生(京都大学図書館長)、伊達得夫(詩人となるも若くして病死)など、そうそうたる先輩がおり、同級生には岡崎敬(九大考古学教授)高川正通(貝島炭坑から製鉄運輸)倉員栄穂(三菱電機)などの秀才に恵まれ、その中で先輩の叱責と級友の励ましによって、私もどうやら人前で臆せず喋れるようになって行った。
またクラスマッチや各寮対抗の各種競技には、自分の技量も顧みず、なんでも出場するように心がけた。野球、バレー、ラグビー、テニス、水泳(平泳ぎだけしかできなかったが)など、たいていのものには出場した。
当時の高校は一クラス三十名から四十名ぐらいであったから、どのクラスの代表選手の中にも一人や二人はずぶの素人がいて、珍プレーを演ずるので、私も気楽に出場できた。
その頃の高校生の間では、素人の珍プレーを嘲笑することなく、むしろそのユーモアに喝采を送るという気風であったが、私としては他人に笑われることに耐えられる自分を創りたかったのである。
後年、麻生の労務担当者として、数多くの団体交渉に臨み、多数の組合員を相手にわたりあったりすることが出来るようになったのは、ひとえにこの高校生活のおかげであると感謝している。しかし古諺にも「三つ子の魂百まで」というように、努力によって修正できるのは表面的性格に過ぎず、私の心の底に横たわるものは、今も昔のはにかみ屋から少しも変わっていない。
ともあれ、こうした心の持ち方も大いに役立ったのであろうか、高校生活三年間は大病する事もなく過ごすことが出来た。この時代はむしろ運動と読書と酒にしたしんで、学業の方が疎かになってしまった。後悔さきに立たずと言うが、もっと勉強しておけば良かったと、この年になって悔やまれてならない。(昭和五十四年)
⇒第十八話「好き嫌い」
ramtha / 2011年4月13日