「平成二十六年 八月一日」
昭和初期の小学校の一学期は七月末日までで、夏休みは八月一日からであった。と言っても、私が通学した戸畑市(現北九州市)の私立明治小学校では、七月半ばからは、戸畑市中原の海辺に突き出した小高い丘の上にある橋本某氏の別荘を借りて授業が行われていた。
そこは広い庭のそこここに樹木の多い別荘で、海からの風が涼しく、クーラーなど無い時代、学校としては生徒の体調を考慮しての処置であったのだろうが、私たち生徒は、鳥の囀る木陰で行われる、この林間学校が格別楽しく、毎年心待ちにしていたものである。
授業は二時間ばかりで、その後は全員海水着に着替えて浜辺に下りて、水泳教室となる。その頃旧制中学校にはプールが設けられていたが、小学校にはまだ無かった。
明治小学校は一学年一学級の小さな小学校で、先生も校長先生を含め男五人女二人計七人である。
通常の授業は各学年毎にそれぞれの担任の先生がされるのだが、水泳の時間は水泳の能力によりクラス分けが行なわれ、泳げる生徒は男の先生方が、まだ泳げない生徒は女の先生が指導されていた。
私は入学以来、男の藤井先生のクラスであったが、水泳は不得意であったから、一~二年のときは女の花田先生に手を引いて貰い足をバタバタしていたものである。
花田先生は掌は暖かく柔らかくて、いつまでも手を引いて居て貰いたいと幼心に願っていたような記憶がある。
中学は県立小倉中学に通ったが、一学期の授業は七月二十日までで、夏休みは四十日ばかりあったが、毎学年山ほど宿題が課せられ、夏休みというのに、毎日午前中は机に向かって悪戦苦闘したことであった。
小倉中学は一学年五クラス、一クラス五十人、一学年二百五十人となっていたが、毎学期の成績でクラス分けをし、成績の劣る五十人を纏めて一クラスとし、このクラスについては夏休みの前半、補習授業が行なわれていた。
今時の新制高校ではどんなことが行なわれているか知らないが、マスコミの伝える今日の世相では、成績によるクラス分けなどしたら、不当な差別などと騒がれるのではあるまいか。
補習授業をされた先生方の熱意は、今時はあまりみられないのではと、この年になって改めて敬服している。
当時の学校制度では旧制中学(五年)を卒業すると、旧制高校・高等専門学校・陸軍士官学校・海軍兵学校を受験する資格が与えられることとなっていたが、高校・陸士・海兵は四年終了で受験することが許されていた。
旧制中学では、上級学校入試の合格者数で社会的評価を受けるので、進学校といわれる有名中学では、成績優秀な四年生を集めて、受験のための特別授業をするところも少なくなかったようである。
小倉中学では四年になると、成績の上位五十名を集めて一クラスとし、早朝一時間、放課後一時間の特別授業が行われていた。
私が四年になった昭和十三年は、四月に国家総動員法が公布され、十月には武漢三鎮を占領するなど、日本陸軍の大陸侵攻の最中であった。
そうした世相を反映して、小倉中学でも軍人志望者の増加に応え、四学年の受験特別学級を二クラスとし、高校受験組のほかに、新たに陸士・海兵受験組が作られた。
全国的な四修(四年修了者)進学競争で、東京府立四中・府立一中などとトップ争いをしていた小倉中学が翌年昭和十四年、最多の合格者を出したことで、当時の学年担任の先生方に大層喜んで頂いた。
その年、旧制高校に入学した夏休みの一夜、われわれ四修合格者は小倉市勝山町の料亭勝山閣に呼び集められ、先生方から
「君たちのおかげで、俺達は日本一の教師になることが出来た」と言われ、ご馳走して頂いた。
想いもかけぬ招待に、私たちは恐縮するとともに、先生方の財布が気になり、支払いは私たちでと申し出たら、
「俺達の安月給を心配してくれるのは有り難いが、実は先頃君たちの父兄の皆さんから、特別授業の謝礼として多額のものを頂いている。心配せずに今夜は思いきり賑わってくれ」と話された。
夏休みに無給で授業して下さった先生方といい、そのご恩に対して、父兄がわが子の知らないところで謝礼をしていたことといい、良き時代の善き環境に育まれたものと、今になってわが身の幸せを噛み締めている。