米ソの冷戦対立が終わったときは、世界中が平和になるかと思われたが、現実は世界各地で紛争が多発し、国際的緊張が増してきたように思われる。中東やアフリカなどでは国家間の衝突に加えて、内乱による死傷者や避難民など、多くの庶民が犠牲となっている。こうした紛争を平和的に解決する方法はないものかと思われるが、最近ではむしろナショナリズムの擡頭が世界的風潮となっているようである。
わが国の周辺でも、尖閣列島における日中の対立、竹島を巡る日韓の問題やロシアとの間で未解決の北方領土問題などがクローズアップされている。
昨年暮れに誕生した安倍政権は、憲法改正や自衛隊の国防軍への名称変更などを声高に唱え、新党維新の会の石原代表も核武装を志向するかの如き発言をするなど、世情はナショナリズムへ傾斜しているように見える。
かつては自分も、戦争放棄を宣言する日本国憲法は、弱肉強食の国際社会では夢物語で、いつかは自主憲法を制定し、在日米軍に依存することなく、自国の安全保障は自らすべきものと考えていた。
しかし再軍備が現実の課題として突きつけられると、果たしてその道を進んで誤り無いか、改めて考えさせられる。
今日取り沙汰されている再軍備論は、近年擡頭著しい中国の世界進出を念頭にしたものと思われる。
ところで昨年ロシアから航空母艦を購入するなど軍備増強に狂奔する中国と対抗して、わが国の安全保障を確保するのにどれだけ軍備をしなければならないか、それに要する財政負担はいかほどのものか。一庶民の自分にはよくは分からないが、それは気も遠くなるような巨額なものになると想像される。なにしろ十三億と言われる中国の人口はわが国の十倍を超え、面積九六〇万平方Kmは、わが国面積三七万平方Kmの約二十六倍である。七十六年前、中国へ進入した日本陸軍は、約十年間蒋介石の軍隊を追い回したが、結局はその広大な面積に呑み込まれ、勝利を収めることはできなかった。
今度は、粗末な軍備の蒋介石軍とは比較にならないほどの近代的兵器を備えた中国軍を相手にすることになるが、果たしてどこまで戦えるか疑問である。
こう考えてくると、武力依存の戦略こそ今となっては非現実的な夢物語と言わねばならない。
では、どうしたらよいのか。
かつての日本社会党や平和論者はひたすら憲法九条を振りかざし、自衛隊の存在も否定する非戦論を訴えていた。しかし、日米安保条約を頼りとする世論の前にはまことに無力で、国民の支持も尻すぼみとなり、やがては社会党そのものが分裂解体することとなった。
当時はまだ中国は発展途上にあり、自国経済の発展向上に専念し、海外進出する力は持たなかったし、日本が頼りとする米国も、唯一の超大国として世界に君臨していた。そういう時代であったから、日本は日米安保条約の上に胡座をかいて居ることができたし、社会党の非戦論もあまり関心を集めなかったのだろう。
だが、社会党への指示が減少して行ったのには今ひとつ別の理由があるように思われる。
当時の社会党や平和論者は非戦論を唱えはしたが、武力に代わって日本が世界の中で生きていく為に自ら頼りとすべきものを示さなかったのではないか。彼らは日本の進むべき道について、具体的なビジョンを持たなかったのではないか。彼らはあくまでも政府の政策を批判する野党であり、評論家に過ぎず、自ら政権に就き政策を実行する覚悟は無かったに違いない。
四年前、はからずも政権を手にした民主党が、結局は無為無能ぶりを曝して退陣せさるを得なかったことがそれを裏付けている。
自分は現在の安全保障のシステムを否定するものではなく、むしろ積極的に維持強化すべきものと考えるが、それのみに依存するのでは無く、日本は武力以外の分野で他国に優る実力を養い蓄え、それによって他国からの尊敬と信頼を受ける国になることが、最も必要なことではないかと考える。
無から何かを生みだすことは出来ないが、幸いにして日本には、先頃の山中教授のようなノーベル賞レベルの世界に誇れる高度な科学や、世界一品質の高い製品を製造してきた技術があり、三次産業の分野では世界に類のない接客のノウハウがある。また東日本大震災における被害者の秩序ある行動は、外国人には尊敬に値するニュースとして伝えられたとも言われている。
あれこれ拾い上げてみると、日本にはすばらしい長所や財産がまだまだ沢山あるようである。
国の財政投融資を中心に、官民をあげてこうした分野の向上発展に努め、日本の技術・文化を抜きにしては世界が成り立たない、そんな国づくりをすべきものだと思うが、いかがであろう。
今年は、この国のあり方について、腰を据えて再考すべき年ではないかと思われる。
(平成二十五年 一月八日)