4月9日、激しい咳による気管支の痛みに耐えかね、急遽、自宅から近い二瀬病院に入院した。主治医の松浪先生は殊更慎重な方のようで、即日地域の拠点病院である飯塚病院に転送、最新鋭の医療機器による精密検査を受けさせられた。
飯塚病院の新しい救急救命センターは、びっくりするような規模で、私が居る間も次々と急患が運び込まれ、それを取り囲む医療スタッフも相当な人数で、まるで卸売り市場に水揚げされた鮪を解体するような賑やかさに驚かされた。私も主任医師の指示に従って動く多くのインターンの不馴れな手で扱われ、甚だ不愉快な想いをさせられた。
飯塚病院には昨年暮れから整形外科に何度か通院し、右足関節の痛みを診察してもらっているが、近代化著しいその尖端医療機器には驚かされる。初診日に担当医師の指示に従い、X線室で下半身のX線撮影をした。私は従来の経験から、フイルム現像が済むまで、X線室前の廊下で待つものだと思っていたが、すぐ外来へ戻るように言われる。腑に落ちない思いを抱きながら外来に戻ると、主治医は机上のパソコンのディスプレイに、私のX線映像を呼び出して、病状を説明してくれる。これを見て、私は自らの時代遅れを再認識すると共に、最新のシステムに驚かされたことであった。
その時も、私のイメージにある医師と患者の関係とは、何となく違うなという思いがしたことである。
考えてみると、私のイメージにある医師は患者の方に向いて居るが、今の飯塚病院の医師は、もっぱら医療機器を見て診断・治療をしているようである。
医療には医師と患者の信頼関係が、最も大事なことで、それには医師と患者の対話が欠かせないと思っていたが、もはや時代遅れの考えなのだろうか。
二瀬病院には二週間入院して退院出来たが、その間、休日以外は毎日主治医が病室に現れ、問診してくれた。その結果、随時看護師へ点滴や酸素吸入の程度など指示していた。ことさらの治療が無くても、毎朝の問診は患者に安心感を与え、医療効果に欠かせないものがあるように感じたが、私一人の思い込みだろうか。
そういえば、飯塚病院では外来受付の事務員も、なにやら机上のディスプレイを見ながら、患者を呼び出し書類の受け渡しをしていた。
二瀬病院は外来の診察医師も二人乃至三人という小さな病院で、患者の多くは高血圧などの慢性的疾患を抱え、長年通院している者が多いように見受けられる。受付で診察券を差し出すと、事務員が「今日はお顔の色がおよろしいですね」とか、「今日は患者さんが少ないのであまり待たなくても良さそうですよ」などと親しげに声を掛けてくれる。こうした会話は全く無駄なことのように思われるが、患者に親近感を与え、病院に対する信頼感を培う事は間違いない。無用の用というものだろう。
近代化というのは、医療の世界でも効率第一主義で無駄を省くということかも知れないが、無駄に含まれる大事なものも同時に失われているのではなかろうか。
旧制福岡高校の入学式で、堀校長が「高校三年間は、学問もさることながら、一見無駄と思われる事も広く勉強して欲しい」という訓示をされていた。その中で、那珂川に架かる中州大橋の欄干や、人が一度も歩いたことのないスペースなどは、川を渡るには不要なものの様に見える。渡る為には足の幅さえあれば良い理屈だが、そんな橋は危なっかしくて渡れない。人間も無駄な知識や幅広い能力を備えてこそ、他人の信頼を得るものであるという話をされたことが思い出される。
昭和34年~35年頃から始まった高度成長の時代は、ひたすら能率の向上を目指して走り続けている内に、無駄と思われるものは、これでもかと削ぎ落とし、今日のようなギスギスした社会になってしまったような気がする。隠居して30年にもなろうかという私には、現役世代の事は分からないが、マスコミなどを通じて見聞きする昨今の世相は、効率主義を追求している内に迷い込んだ迷路のように思われる。
(平成二十五年四月二十三日)