先頃オバマ大統領が、アメリカ軍の兵士を戦地に送るような大規模な戦闘から、無人機を使ってテロリストを殺害するピンポイント型に軸足を移す、と発表したと伝えられている。
米国本土から通信衛星を使って無人機を遠隔操作し、海外に居るテロリストを殺害するというのは、米兵を危険に曝すこともなく、経費も安上がりにつくということだろうが、米国民の立場に身を置いて考えても違和感がある。どうしてだろう。
人が人を殺傷するということは、原始時代から行われて来たことだろうが、その方法は文明の進歩と共に変化してきている。
初めは自分自身の腕力で、次には石や棒を使い、扼殺や撲殺などしていたのだろう。
やがて刀や鑓など金属製の刃物を用いるようになり、さらには楯で身を守り、遠距離から矢を射て相手を仆す事を手に入れた。
火薬が発明されると、鉄砲・大砲の時代と成り、飛行機が登場すると空からの爆撃が行われるようになった。
こうして経緯を眺めると、殺傷の手段が直接的な自分の手足から間接的な武器へ、また目前の敵からだんだん遠くの敵へと距離が拡大していることに気づく。
自分では経験の無いことだから、想像してのことではあるが、他人の首を絞めるときは、相手の苦しむ顔が目前に見え、呻き声はすぐ耳許にあり、抵抗する手で自分の手も掻きむしられたりするので、その苦しみは直接伝わってくる。
だから、格闘している瞬間の頭の中は、殺意がすべてであろうが、事後しばらくすると、罪悪感に悩まされるに違いない。
これに対して、矢や鉄砲によるときは、相手の仆れる姿は目にするものの、相手の苦しみを感じることは少ないことと思われる。
まして、地雷や空爆などによるときは、その光景は遙か彼方で、相手の悲鳴や断末魔の反応を感じる事も無いだろう。
無人機の遠隔操作となれば、人は計器盤を見つめ機会の操作に夢中になることはあっても、その結果がどのような事になるのかなどは、考えてもみない事だろう。まして、良心の呵責など微塵も起こらないに違いない。
ひょっとしたら、機械操作の成功に快感を覚える者も居るのかも知れない。
人類は凶器の発達と共に、次第に良心が麻痺し、やがては罪悪感を失うことになるのではなかろうか。いや、平和な日本で暮らす私が知らないだけで、もう罪悪感など失われてしまった不気味な末世となっているのかも知れない。
(平成二十五年五月二十八日)