今朝の毎日新聞に、小学校六年生と中学三年生を対象に行われた、全国学力テストの結果についての記事があった。それを見て考えさせられた事があった。
門外漢のピント外れな思いかもしれないが記す事にする。
①記事によれば、無回答の子どもに理由を尋ねたら「問題の意味が分からなかった」という子どもが多かったという。
このテストは国語と算数の二教科だが、いずれの科目にしろ、設問の意味が読み取れないということは、勉強以前の会話能力が不足していることではないか。
会話能力が足りないようでは、日常生活に困ることはないのかと思うがどうだろう。子ども達は学校に登校してテストを受けているのだから、別段困っているわけでもないらしい。
考えてみると、私たちの子どもの頃はどの家庭でも四~五人の兄弟姉妹がいて、食事もお互い争うように食べたものだが、今は独りっ子の家庭が多く、親の世話が行き届き、敢えて意思表示をする必要も無い。
テレビを見ながら沈黙の内に食事は終わり、食後の後片付けをすることもなく、自分の部屋に引き籠もる。
また、友達連れで登校するときも、終始指先で携帯を操作し、お互いに会話することも無いらしい。これでは会話能力も育ちようもない。
会話能力の不足は、どうもこうした生活習慣がもたらしたもので、根の深い問題と思われる。どう解決してよいのか私には分からない。ただこの国の将来が気になるばかりである。
②この記事には触れられていないが、日常行われている学校のテストの○×方式がこの問題の一つの要因ではないかと私は考えている。
○×方式では、設問から解答に至る思考過程が省略されている。そもそも○×による成績の確率は50点ということになる。生徒は何も考えること無くいずれかを選ぶだけで良い。いわゆる丁半博打(ちょうはんばくち)に等しく、教育の場で行うものではない。
私が通学した昭和初期の学校の算術では、問題から答えに至る算式を書かなければ、答えだけ合っていても点は貰えなかった。逆に、答えは間違っていても、算式が正しければ△印がつけられ、半分点を貰えたことである。
○×式は何時頃から採用されたものだろう。それまで聖職者とされてきた先生たちが、労働者に変わり、日教組の組合員となってから、自分たちの労力節約に考え出されたものではなかろうか。
そもそも先生が行う教育活動は、生徒の資質向上を目的とするものである筈で、○×式はその理念に背くことは明白、即刻改めるべきである。今日の先生たち自身が○×式教育の中で育っているから、何ら疑問も持たないことだろうが、考えてみて欲しい。
○×式で全てを評価するのは、スポーツ記事でよく目にする「結果がすべて」という思想である。スポーツ競技は勝ち負けで評価され、また勝ち負けが明白な世界だから言われるのだろうが、それは短絡的な考えである。
運動選手の成果はその人の素質×練習である。
A・B二人の選手を仮定してみる。Aは素質2,練習4とすれば成果は8。
Bは素質1、練習量6とすればその成果は6となる。この場合、Aの成果がBのそれより大であるから、成果は練習量とは無関係とするのが結果主義である。
今日の人々の潜在意識に潜む成果主義は、○×式テストに限らず、他の生活習慣にもその原因があると思われる。その一つがインスタント食品であり自動販売機である。
これらは私の成長期である戦前にはなかったもので、今日の生活には欠かせないまことに便利なものである。
だから、今更無くすことは出来ないが、よろず便利なものは、人間を怠惰にし、放置すればやがて無能になるものであることを肝に銘じ、それなりの対策をせねばなるまい。
自動車などの交通手段も、耕耘機などの農業機具も無かった昔は、人々は自分の脚でひたすら歩き、自らの手で田植えや稲刈りをしなければならなかったが、おかげで無意識のうちに身体を動かし,改めて運動などしなくても良かった。
ところがよろず便利になった今日では、健康保持の為殊更にスポーツ器具を購入し運動に努めている。それをしない怠け者には、高血圧や糖尿病などという天罰が与えられている。
他方、先生たちが過労の状態であると伝えられているが、その原因はどうも教育委員会や文部当局への資料提出、報告書類の作成、不心得なモンスターペアレンツへの対応などの雑用にあると聞いている。
文部当局や教育委員会は、先生たちの要らざる負担を軽減し、生徒の教育に専念できるようサポートするのが本来の使命である筈ではないか。
ところが仕事熱心な官僚ほど、せっせと仕事を作る事が自分の任務と考えているようである。自ら作った仕事の処理まで自分でするのであれば良いが、処理するのに他人を巻き込む事になると、甚だ迷惑なことになる。
しかし、官僚という人種は、そんなことなど考えてもみないようである。官僚の自己満足に付き合わされている現場の先生たちはまことに気の毒である。
公務員の仕事がどれほど忙しいのか私には分からないが、長年サラリーマンをしてきた私には、仕事が無くて暇なことぐらい辛いことはないのは良く分かる。仕事をしている素振りをするにも、何か仕事を作らねばならないではないか。中央官庁の役人を減らして教育現場に配置することはできないのか。
余談になるが、そもそも国が国民のためにすべき最重要課題は、治安維持と安全保障、国民教育である。その為には他の財政支出を削っても、警察官と自衛隊、学校教員は十分な人員を確保しなければならないものと考えるがどうだろう。
③毎日新聞の解説欄では、このテストの実施費用は約五十五億円で、このような巨額な金額をテストにかけるのは如何なものかと異論を述べている。私もこうした全国テストの効果に疑問を感じてはいる。しかし、それは別として、五十五億円の内訳が示されていないから分からないが、そんなに多額の費用がかかるのかと、その事も疑問に思った。
今回のテストに参加したのは小学六年生百十二万人、中学生百七万人ということだから、併せて二百十九万人となる。一人に問題用紙をB4サイズで十枚必要としても、全部で約二千百九十万枚。街のコンビニ備え付けのコピーを利用するとして、一枚十円だから、総額二億一千九百万円ということになる。
実際には入札により、印刷業者に刷らせるのだろうから、ずいぶん安く出来るに違いない。
その他にどんな費用が掛かるのだろう。テストも先生たちの就業時間内で行えば、別に人件費は要らないのではないか。採点・集計についても同様ではないか。
こう考えると五十五億円というのは、どのような根拠で誰が推算したものか知らないが、眉唾ものに思われてくる。問題作成や問題用紙の印刷、さらには採点集計などを委託する機関に、官僚のOBが多数天下りしているのではと勘繰りたくなる。
また、素人の私でさえ考えられることを、その道のプロ集団である新聞社は当然分かっている筈だが、それを記事にしていないのはおかしい。
④記事の一覧表を見ると、秋田県の成績はダントツで目を見張るものがある。続いて上位にあるのは、石川、福井、青森の東北・北陸勢である。
いずれも県の教育担当者の熱意と努力の賜物であると思われるが、片田舎のイメージがある地方の県であるのにどうしてだろう。
秋田県と福井県については、県独自の学力テストの活用があげられ、その上秋田県は少人数学級に伴うきめ細かな指導がその要因とされている。
しかし考えてみると、これらの地方は大都会の喧噪から離れ、都会では崩壊しつつある標準的家庭が多く存在しているのではないか。その心温まる家庭の健在が、この地方の子どもの成長を支えているのではと思われる。
学校教育もさることながら、温かい家庭環境が何よりも大事なことではないかと改めて思ったことである。
成績の最低は沖縄県、次いで北海道、三重県、滋賀県、島根県、高知県などが続いて下位に並んでいる。
沖縄県が殆どの科目で最下位にあるのを見ては、痛ましい感じがしてならない。先の戦争では、唯一地上戦の戦火を蒙り、戦後二十六年間も米軍の占領下に苦しみ、今なお米軍基地の負担を強いられていることが、子どもの学力にまで影を落としているとは・・・
まことに言うべき言葉もない。
(平成二十五年八月二十八日)