私は太平洋戦争開戦の翌年、昭和十七年四月東大文学部教育学科に入学した。
上京した私は受験の時にも世話になった、吉祥寺の伯母の家に厄介になることとした。長年農林省に勤めていた伯父はすでに亡く、伯母は長命の姑に仕え、中学生の長男、女学校一年の末女、それに弁護士だった主人を亡くし娘を連れて戻って来た長女と共に暮らしていた。
今から考えてみると、それだけの家族の住む家に、よくまあ厚かましくも転がり込んだものと思うが、世間知らずの当時はそんなことなど考えてもみなかった。
もっとも初めは然るべき下宿が見つかるまでと言うことであったが、生来ルーズな私は、ろくろく下宿捜しもせず、そのうちに当時市立一中(現在の九段高校)の補修科在学中の従兄弟の勉強を見てやるようになってからは、伯母も私の同居をむしろ希望するようになり、初めはなにがしか入れていた食費も受け取らなくなった。
こうなると益々居心地が良くなり、とうとう東大在学中(といっても学徒出陣で応召入隊するまでの一年七ヶ月だったが)ずっと居座ってしまった。
現在の吉祥寺は中央線沿線で最もファッショナブルな賑やかな街になってしまったようだが、当時は井の頭線のホームがある南口の方は、少し先に木の生い茂る井の頭公園があるばかりで、住宅らしきものも少なくまことに淋しいところであった。
北口の方も駅前通りに僅かばかりの商店が並んでいるだけで、駅から百メートルも離れると道の両側には畑が広がり、雑木林に囲まれた農家が点在する武蔵野の風景であった。
駅の北口前から北へ延びる道を辿ると、藤村女子体操学校があり、その先には成蹊高校(当時は七年制高校、現在の成蹊大学)があった。
吉祥寺駅界隈では紺サージの瀟洒な制服を着た高校生の姿が多く見かけられたが、田舎者の私の目にはいかにもモダンなスタイルに映ったものであった。
同じ北口前の広場から西へ向かう道路があったが、それが南北に通じる道路と交差する四つ角に寿司屋が、更にその少し先の左手に蕎麦屋があったが、当時北口周辺での食べ物屋と言えばこれくらいのものではなかったかと思う。
蕎麦屋の裏手に当たる家に下宿していた橋本君(福岡高校卓球部の同僚で東大法学部に在学していたが、学徒出陣で戦死)と何度かその暖簾をくぐったことであった。
西への道は蕎麦屋の少し先からは生け垣に囲まれた閑静な住宅地をなっていた。駅前からどの辺りまでかは舗装してあったようだが、それも簡易舗装で道の両側には砂利が溜まったり、雨の日には水溜まりが出来ていたりした。
駅から二十分ばかり歩いた吉祥寺と三鷹のほぼ中程の所で、南へ向かう小路を入り、その小路が水道道路(村山貯水池から東京都心への送水管が埋設された道路)に突き当たる右手に伯母の家があった。
通りからその小路へ曲がる角には東京商大の上原専禄教授(西洋史専攻)の邸があり、お嬢さんが弾くピアノの音が杉垣の奥から聞こえていた。
私は伯母の家の二階八畳の間に起居していたが、南向きの窓からは水道道路の向こうに芝を栽培している畑、その向こうには杉林が見えていた。夜ともなると、中央線の電車の灯りが杉木立を縫って通り過ぎて行った。
夏の夜など、団扇片手に浴衣着で水道道路に上がり涼んだりしたが、随分蚊に喰われたものだった。しかしその頃の夜空にはまだ多くの星を仰ぐ事が出来たものである。
大学に通うのには、吉祥寺駅からお茶の水駅まで中央線の急行電車(当時は快速電車とは言わなかった)で約四十分、お茶ノ水駅から東大正門まで歩いて十五分位かかった。
通学電車は今のラッシュ時ほどではなかったが、それでも吉祥寺始発の電車に乗り合わせた時のほかは、まず座れなかったように思う。
電車の窓から眺める風景は、いま見るような高層ビルなどはなかったが、都心へ近づくにつれ、軒を連ねた家の屋根ばかりで山の姿など何処にも見えず、それまで小倉でも博多でも朝な夕な山の見える世界に暮らして来た私には、まことに異様に感じられたことであった。
大学の授業は二時間単位で、八時~十時、十時~十二時、十三時~十五時、十五時~十七時の一日四時限制となっていたが、多くの学生が受講する講座や、有名教授の講義は二時限以降に組まれていた。
東大文学部は学年制ではなく単位修了制で、在学三年の間に各学科別の必修講座を含め、たしか二十一単位を取得し学士論文を提出して審査をパスすることが、卒業の要件となっていた。
だから学生は、各自自分の好みと学習計画に従って講座を受講するのだが、一、二年の間に二十一単位すべてを取得し、三年目は卒論の作成に充てると言うのが一般の慣わしであった。
私たちの時代には当今の大学で行われているようなガイダンスなどはなく、こうした学習のノウハウなどは先輩から授かり、後輩へ伝えたものであった。
私も先輩の教えに従い、一、二年の間に二十四単位ほど(成績は芳しいものではなかったが)取得し、三年目の卒論に備えていたが、三年次に入った昭和十八年十月には文化系学生の徴兵延期制度が廃止され、十二月に入隊、翌十九年九月には卒論免除のまま繰り上げ卒業となった。
留守宅に送られて来た卒業証書と学士認定書を復員してから手にしたが、論文の無い学士号には些か後ろめたい思いであった。
必要な単位は取得し、戦時中のドサクサに紛れてなんとか卒業は出来たものの、当時を振り返ってみると、自分でも勉学に熱心だとはとても言えない学生生活であった。
大学では出席点呼はなく(例外として軍事教練と社会学の戸田教授の講座だけは出席点呼があった)、テストと言えば学年末試験だけであったから、生来怠惰な私はついずるずるとサボリがちであった。
文学部の講義では、専攻の教育学の講座より宗教学や美学の方に興味が傾き、一時転科を考えたこともあった。
当時の高校生の必読入門書であった「哲学以前」の著者出隆(いでたかし)教授の声容に親しく接せんものと、期待をもってその講座に出席したが、著書からのイメージとはかけ離れたまことに地味な講義でがっかりしたことであった。
私と同じ想いをした学生も少なくなかったようで、開講日には教室を埋め尽くした受講生も回を追うにつれ減少して行った。しかし考えてみれば本来哲学そのものが地味な学問であり、そこに革命家のアジ演説の如き熱狂的な講義を期待する方がお門違いと言うものであろう。
いま一つ入学前から是非ともと期待していた和辻哲郎教授の倫理学講座は、今風に表現すれば東大文学部の目玉商品で、文学部のみならず工学部、医学部など他学部からの聴講生も多く、収容定員の最も大きい二十九番教室は、受講生が溢れるばかりという有り様であった。
どの講義でも先生方が教室に姿を見せるのは、概ね定刻十分過ぎ位であったから、こちらもそれに合わせて教室に入れば良いのだが、和辻教授のときは定刻前に行かなければ座席が確保できない程で、いつも教室の後の方では立ったまま聴いている学生が大勢いた。
そうした立ち聴きの学生でも誰一人途中退室する者が無いほど、教授の講義は魅力ある名講義であった。端麗な容姿、教室の隅々まで徹る張りのある音声や明快な口調もさることながら、それにもまして教授の長年にわたる研究と思索から生みだされた独自の講義は、毎回私たち学生の心を惹きつけてやまなかった。
しかしそれ程多くの学生がその講座に蝟集したのは、今にして思えば、日ならずして戦場に駆り出される宿命を背負った彼らが、戦争と人生の懐疑について教授の倫理思想にその解決を求めようとしていたのではあるまいか。
受講生の中には、私の先輩や友人の顔も多数見られたことであったが、その中の幾人かは戦場に赴いたまま、遂に帰らぬ人となってしまった。
戦時特別措置による修学年限短縮のため、四月に入学した私たちは、僅か半年で一年次を終わり、十月には二年次に進むこととなった。このため夏休みは返上、八月の暑い盛りにも講義が行われた。
当時はもちろん冷房設備など無く、教室の天井に取り付けられた扇風機が上昇した暑い空気をかき回すだけ、おまけに当時の学生は夏も黒い詰め襟の上着を着用していたので、教室に座っているだけで汗が流れてくる。
先生によっては、上着の釦を外すことを許されたりしたが、上着を脱いでなどと言う事はなかった。午後の講義など襲い来る睡魔に、いつしか転た寝していることもしばしばであった。
学年末試験が九月に行われるので、蚊帳の中に机を引き入れて勉強したが、一年分の講義の分厚いノートをめくるだけで夜明けを迎え、そのまま試験に臨むという有り様であった。
大学の授業には講義の他に「演習」があり、専攻学科の演習を二単位以上取得しなければならないこととなっていた。演習では担当の先生が設定された研究テーマに関し、それぞれの学生に関係文献が割り当てられ、順番にその文献の内容を紹介するという作業が行われた。
予め登録した高校での第一外国語に応じて英語、ドイツ語などの原書が割り当てられ、指定された日までにその内容を要約し、関連文献等を調べ、演習において紹介しなければならない。
高校までの語学では、一時間の授業でせいぜいテキストの三~四ページという進度で、しかもその翻訳がいつも自分に当てられるというものでもない。ところが演習で私に割り当てられたドイツ語の原書は、三百ページ以上もある。何はともあれ、これを翻訳して内容を理解することが先決だ。語学が不得手な私は気の遠くなる想いであった。
辞書を頼りにとりかかったが、一晩やっても三、四ページしか進まない。この分でいくと翻訳するだけで百日以上もかかるではないか。その原書を前にして私は茫然自失の想いであった。
しかし気を取り直し取り直ししながら悪戦苦闘しているうちに、一冊の原書に頻出する専門用語は限りがあり、初めの二、三十ページで現れた単語が繰り返し出てくるので、辞書を引く回数も少なくなった。
また、著者の言い回しにもその人の慣用のパターンがあり、それの繰り返しが多いので作業は次第に進み、一ヶ月ばかりで読み了えた。なんとか自分の紹介発表の日に間に合わせることが出来たが、語学力の不足で、内容の取り違いを教授に指摘され、赤面する場面も少なくなかった。
こうして講義や演習に一応出席していたが、専攻の教育学には今一つ身が入らず、かと言って自分の情熱を傾けるようなテーマも見つからず、石橋先生の宗教学、大西先生の美学、宇井先生のインド哲学などの講義を当てもなくさまよっていた。
昭和十八年三月、勉強を見てやっていた従兄弟が、日本歯科医専に合格した。体格はいいが頭は良くないとばかり思い込んでいた伯母は大喜びで、お門違いにも家庭教師としての私のおかげと吹聴したらしい。伯母の親戚先の歯科医から、男の子の家庭教師を頼まれることとなった。
その家は、東急東横線の祐天寺駅前にあったので、週二回お茶の水から直接立ち寄り、勉強を見てやることになった。小学校六年生で、中学受験のためであったが、さほど成績が悪いというのでもなく、家庭教師をつける程でもないのにと思ったことであった。
しかし、大学出の初任給が六十円とか言われたその当時、月額三十円の家庭教師収入は随分有り難く、おかげでその年北海道旅行を思い立つことができた。
従兄弟は歯科医専に入学したのだから、もう勉強を見てやることも無くなったが、伯母は依然として食費を受け取ろうとしない。私にとっては有り難いことに違いないが、そのままでは余りに虫が良すぎて心苦しいと言ったら、女学生の末娘と、同年の孫娘二人の勉強を見てやってくれと言う。分からぬ事があった時、教えるという事だったが、二人とも成績も良く余り教えることはなかった。
また、未亡人の従姉妹は弁護士だった亡夫が随分財産を遺していたようで、優雅な暮らしをしていた。彼女に歌舞伎座や明治座のお芝居など何度かお供をして見せて貰ったりした。
そのようなことで経済的にはまことに恵まれた東京遊学であったが、戦況は山崎部隊のアッツ島玉砕、ガダルカナル沖海戦などを転機に次第に悪化し、退却を意味する日本軍転進という文字が新聞報道に現れ始めた。
店頭の商品は次第に少なくなり、甘いものと言えば、指ほどの大きさに固まった乾燥バナナぐらいしか無かったことが思い出される。
あれは昭和十八年九月の何日だったろうか、家庭教師先のお嬢さんに誘われてNHKスタジオに勧進帳の放送風景を見に行った。マイクに向かって歌舞伎役者が台本を手にラジオ放送をしているのをガラス越しに観客席から見ていたら、突然芝居が中断し、「臨時ニュースをお知らせします。臨時ニュースをお知らせします」と来た。
観客一同、すわ何事ならんと耳をすませていると「戦況重大な時局に鑑み、文化系学生の徴兵延期を撤廃する。」と言う東条首相の声明を放送している。
いずれ戦場にとは思っていたものの、僅か一年半で大学生活が終わろうとは思ってもいなかった。ショックは大きかったが、他人の目がある。私は平然としたそぶりを取り繕っていたが、「大変なことになりましたわ。こうしちゃいられませんね。もう帰りましょう。」とお嬢さんは言う。
「いや折角だから最後まで観ましょう」と私は強がりを言って引き続き始まった勧進帳を見続けたが、もう心はここになかった。
勧進帳が終わって表に出たら、灯火管制下の街はことさら暗く、危うく石段を踏み外そうとして少しよろけた。動揺する心を見透かされたのではないかと一瞬思ったが、彼女は何も言わなかった。虎ノ門へ向かう通りは暗く、靴音だけが夜の街に響いていた。
(平成二年)