東大教育学科には、三年生の時クラス全員で卒業記念に研修旅行をする慣わしがあった。
しかし昭和十七年四月入学の私たちは、太平洋戦争が次第に苛烈になっていく当時の世相の中で、果たしてそんな悠長なことが何時まで許されるのだろうかという不安があった。
修学年限そのものが二年半に短縮され、一年次は夏休みも返上しての授業で、僅か半年で二年に押し上げられた時、クラスの誰しも自分たちが三年になる来年は、恐らく学生の旅行など出来なくなるのではないかと思ったのも当然のことであった。
誰が言い出したことか分からないが、二年生のうちにやろうじゃないかという話が持ち上がり、一人の反対も無くその企画は推し進められた。
卒業すれば例外なく戦地へ送り込まれ、再び全員がこの世で顔を合わせることなどあり得ないという思いが、言わず語らずのうちに二年での卒業旅行へと駆り立てて行った。
旅行の企画、宿の手配などは、日頃から面倒見のよい大槻君がしたのだったと思うが、旅行先には日本三大美人郷と言われる京都、新潟、秋田のうち、米の飯がたらふく食べられそうな新潟と秋田が選ばれたのも,当時の時節柄と言うものだろう。
いずれにしても九州育ちの私は、東京から北へは行ったことがなく、一も二も無く喜んで参加したことであった。
私などは幹事の指示に従って行動すればよいのだが、幹事は大変だ。
大学は単位取得制だから、クラスが同じと行っても全員が同じ講座を受講しているわけではないから、顔を揃える機会などなかなか無い。
まして今のように学生が自分の下宿に電話を備えているわけでもないから、その苦労は並大抵のことではなかったろう。研究室の伝言板のみが主な連絡手段であった当時、よくも全員の合意と統制がとれたものと、今から思えば不思議な気がするくらいである。
昭和十八年五月下旬、我々の研修旅行は出発した。
新幹線などなかった当時、上越本線で北上、山深い土樽(つちたる)駅(新潟県南魚沼郡)で下車、新緑の山道を登り、第一日の見学先「満蒙開拓訓練所」を訪れた。
標高七百メートルの高原にあるその訓練所は、農家の二、三男など満蒙雄飛を志す少年に、高冷地における実習を通しての農業技術の教育の他、必要な語学や軍事訓練も行われていたように思う。
生徒は高等小学校卒の十五、六才の男子で、照明と言えばランプの灯りだけという粗末な宿舎に、栗や稗、山菜などを常食とする自給自足の生活をしていたようだ。
冷え込む高原の夜、囲炉裏を囲んで指導員の説明があったが、どんな話があったのか記憶してない。ただ我々に笹茶をついでくれた少年の手が、農作業でいたくささくれていたのを見て、怠惰な学生生活をしているわが身が恥ずかしく、後ろめたい気持ちに襲われたことは忘れられない。
二日目は新潟市に出て、師範学校の授業参観をしたのだと思うが、サッパリ記憶が無く、先輩を囲んでの夜の宴会が盛大であったことのみを思い出すというのは、我ながらお粗末の限りである。
新潟より羽越線を北上、山形県南部の温海温泉で三日目の夜を迎えた。駅から川沿いに遡ったまことにひなびた湯の街であった。
翌朝、川岸の道を下りながら大槻君、田村君などが、晴れ渡った空に向かって当時流行した軍歌「空の神兵」を歌っていたが、唱和する気になれなかったのは何故だろう。音痴のせいばかりではない、複雑な気持ちのためらいがあったように思う。
四日目は秋田での見学だが、これも何処で何を見学したのか憶えていない。
秋田のお城のツツジの花をバックに記念写真を撮ったこと、はるか日本海に浮かぶ寒風山の姿がおぼろげながら望まれたことなどが思い出される。
しかし、秋田の夜で忘れられないのは、アッツ島玉砕のニュースである。大本営発表の臨時ニュースがあると言うので、二階に泊まっていた我々は浴衣姿のまま階段下へ集まり、宿の帳場にあるラジオの声に聴き入った。たしか、五月三十日の夜だったかと思う。
北辺の守りにアッツ島を占領守備していた山崎中佐率いる一個連隊が、米軍の反攻の前に全員玉砕したと言う。帳場に座る宿の人も、階段に腰掛ける学生も寂として声なく、しばしうな垂れていた。その中にはイタリアからの留学生タッサン・ニコロ君もいたように思う。
しばらくして大槻君から「おい、どうする。」と声をかけられて私はハッと我にかえった。
実は我々の研修旅行はこの秋田の夜を最後に解散、各自それぞれの行動に入ることになっていたが、私はこの後、唯一人北海道に脚をのばすつもりでいた。大槻君はその私の旅行計画について訊いているのだ。
私もニュースのショックで一瞬戸惑ったものの、「予定通り行く」と応えた。彼は私の耳元に口を寄せて「津軽海峡にも敵の潜水艦が出没しているそうだぞ、アッツ島も陥ちたとすれば益々危険だ。やめたがええのとちゃうか」と忠告してくれる。
「うん、やられたら一発でお陀仏だな。ま、死ぬのが少し早うなるだけのことや。どうせ何時かはあの世に行かなならん。」と私は多少投げやりな台詞を残して、その夜の夜行列車で一人青森へ向かった。
半世紀近くもなる昔のことで、自分自身のことながらその時の心境は今ひとつはっきりとは思い出せない。
私は生来の虚弱体質で、おまけにこれといった特技もない怠惰な文科学生にすぎない。兵隊としてはもとより、戦時下の世の中ではおよそ役立たずではないか。そういう日頃の懐疑がが、その頃の私を多少ともニヒリスティックにしていたように思われる。
今から思えばまことに恥ずかしいことだが、死の恐ろしさも知らず、魚雷に当たって津軽海峡の藻屑となるのもいいではないか、と言った捨て鉢な気分であったような気がする。
ともあれ、翌朝の青函連絡船に乗り込んだ。多くの乗客と同様に三等船室の畳の上に寝そべっていると、船内マイクで敵潜水艦来襲に備えての注意が放送されている。すると船室のあちこちで二、三人ずつ頭を寄せて何事かささやき合っている。
小声のやりとりで何を話しているかは分からない。アッツ島玉砕のことか、思わしくない戦況のことか、いずれにしても他聞をはばかる話であろう。船室の扉が開閉し、人が出入りする度に彼らの話は途切れ、寄せ合っていた顔はバラバラに、何事もなかったような顔をしている。そんな乗客の表情を眺めているうちに夜汽車の疲れから、いつしか寝入ってしまった。
どのくらい眠っていたのだろう。「学生さん。学生さん。」と揺り起こす声に目を覚ましたら、隣に座っている小母さんが起こしてくれていた。
「無事函館に着いたよ。さすが男だね。私らおちおちないのに、グッスリ寝てたね。」と呆れ顔で見られたことであった。
函館では父の弟の三郎叔父を訪ねた。叔父は以前菓子屋を営んでいたという事だったが、その頃は戦時の経済統制で店をたたみ、製菓工場へ勤めていたようだ。住居も先年の函館大火で焼き出され、手狭な長屋住まいをしていた。
長女がお産のために里帰りして来ていた時でもあり、突然の甥の来訪は随分と迷惑な事だったに違いないが、人の好い叔父は函館山の麓にある佐藤家の墓に案内してくれたりした。
叔父の家には二晩ほど厄介になり、その間に五稜郭を見たりしたが、当時は観光施設などなく、単なる城跡の空き地と言った風情であった。
函館から函館本線で札幌へと向かう。車窓より望む駒ヶ岳の山容、延々と続く噴火湾の海岸線、長万部から小樽への沿線に見る防雪林、初めて見る林檎の白い花などが印象深く今も鮮やかに蘇ってくる。
列車はたしか急行だったと思うが、一日がかりで札幌に着いたときは、はや黄昏時だった。時計台近くの旅館に泊まったが、灯火管制の暗い光の下で侘しく食事をしたことであった。
一昨年(昭和六十三年)四十五年ぶりに道庁や時計台のある界隈を歩いてみたが、周りに高いビルが林立し様相は一変していた。今は道路や建物が立派になり、まことに明るい観光地となっているが、当時は道庁の庭のポプラの木陰に古く暗い池があった。人をして深い思索の淵に引き入れるような、あの雰囲気は何処へ行ってしまったのだろう。
札幌から上川へ向かう。客車の窓ガラスは二重になっており、客車の片隅にはだるまストーブがある。もう六月になろうかと言うのに、時折車掌が巡回してきて石炭をくべていく。
石狩川に沿って遡る。川幅が次第に狭くなり、険しい崖に乗っかかるような駅に停車する。神居古潭(かむいこたん)である。アイヌ語で神のおわす所の意とか。深い緑の山に囲まれ、谷底には紺碧の水が淵をなしている。まさに神居古潭にふさわしい風景であった。
この崖縁を走る鉄道は、一昨年訪れた時は廃線となっており、サイクリングコースに姿を変えていた。また昔の駅の対岸は濃い緑の山であったが、今は無残にもその山は削られ、自動車道となっている。かつての幽邃(ゆうすい)な神居古潭の趣は失われ、滅法明るい道路を私達を乗せた観光バスが走っていく。カムイはいづこに移り給うたのであろう。
旭川で石北本線に乗り換える。ここから客車内のストーブは石炭から薪に変わる。乗客も少なくうそ寒い車内である。エゾ松であろうかトド松と言うのであろうか、南国育ちの私には馴染みの薄い木々が生い茂る原生林の中を列車は走る。
上川駅で下車、駅前から層雲峡行きのバスに乗る。峡谷美を仰ぎ見ることが出来るように、天井がガラス張りの珍しいバスである。戦時中のこととて乗客は少ない。川沿いの狭い道を上がって行く。左手は切り立った崖、さまざまな形の奇岩がそびえている。右手は川を挟んで向こう岸も崖が迫っている。バスガイドの案内を聞きながら、右、左の景色を仰ぎながら進む。やがて終点層雲峡バス停に着く。
吊り橋を渡った向こう側にたった一軒の旅館があるのみ。旅装を解いて川岸の小径を辿る。大雪山からの雪解けの水が、岩を噛んで勢いよく流れる。人間の背丈ほどもある蕗、原生林の中で妖しく光る白樺の木肌。
対岸の崖には流星、銀河の瀧が飛沫をあげて落ちている。小函、大函へのこの暗い小径を辿るは私一人。このまま黄泉の国へ通じるのではないかと思われるような気分であった。
山峡の日暮れは早く、肌寒くなり、大函から先は断念して宿へ引き返した。
夕食の給仕に現れた女中さんは、見たような顔だと思ったら、なんと昼間のバスガイドである。彼女の話によると、観光バスと旅館は同じ経営者で、バスは一日一往復、今日は女中さんが休んだので代わりを頼まれた由。和服姿になるとすっかり旅館の仲居さんになりきっているところが妙である。
翌朝、昨日のバスで上川へ引き返し美幌へ向かう。函館から葉書でも出して連絡していたのだろう、美幌の駅には伯母が従兄弟二人を連れて迎えに来ていた。
お互い初対面なのだが、美幌駅で下車する客は少なく、学生服姿は私一人なので、すぐ挨拶を交わすことが出来た。
父の兄に当たる伯父は、私の父や函館の叔父とは異なり剛直な人で、シベリア出兵の時、露探(ロシアを対象としたスパイ)としてシベリアへ潜入したという事であったが、その頃は美幌の街で海軍航空隊の士官を上得意とする料亭を経営していた。
伯父夫婦は初めて訪れた私を歓待してくれ、朝からニシンの丸揚げにコップ酒という有り様、余りの居心地の良さに一週間ばかり居続けてしまった。
この滞在中に、一日従兄弟を連れて阿寒湖へ出かけた。北見相生から阿寒湖へのバスは二日で一往復、このため行きは徒歩で訓北(せんぽく)峠を越えたが、人一人会わなかった。
幸い天気に恵まれ峠から見下ろす雄大な景色に暫し見とれたことだった。帰りは運良くバスがあり日帰りすることが出来た。
またある日、伯父の家の裏手にある馬小屋から火が出て、時ならぬ昼火事となった。家の屋根は柾葺き、火の粉が飛んできたら一溜まりもない。私は二階の窓から屋根に上がり、仲居さん達がバケツリレーで運ぶ水をかけ類焼を防いだが、我ながら大活躍であった。
出発の日、伯父から小遣いにと大枚百円を貰った。一ヶ月のサラリーマンの給料が六十円の時代、感激だったな-。
この金で樺太まで行こうかと思ったが、二週間も大学をサボっていたので、また来年と考え帰途についたが、取り返しのつかぬ失敗となった。
その年の十二月、文化系学生の徴兵延期停止で入隊、戦争が終わってみれば樺太はソ連領。ついに見果てぬ夢となってしまった。
(平成二年)