長女史が生まれ妻順子が実家で産後の養生をしていた昭和二十五年の二月のことであったろうか、ある日勤務を終えてわが家(当時吉隈炭坑の旭町社宅に住んでいた)に帰ってみると、見かけぬ青年が来ている。
順子の留守中家事を手伝って貰っていた姉の話によると、母方の遠縁に当たる佐藤保昭である。年の頃は二十歳くらいか、まだ童顔の残るその顔を見て思いだした。前年の夏、熊本出張の折尋ねた叔母の家で一度紹介された顔である。
だから全く知らぬ間柄ではないが、前触れもなく訪ねて来られる程の関係ではない。その唐突な来訪に私は些か不快な感じを受けたことであった。そうした気持ちは彼にも伝わったのであろう、部屋の隅に身を小さくしてかしこまっている。
いずれにしても来訪の目的を訊かねばならない。本来ならば叔母の消息を尋ねるなど、然るべき会話を交わした後、本題に入るところであろうが、そこは私の未熟さ加減で、いきなり来訪の目的を質したものである。
恐らく検事の如き尋問口調になっていたことだろう、彼はますます身を縮め、しどろもどろに事情を述べる。
それによると彼は中学を勉強嫌いで中退し、地元の製糸工場で働いていた。ところが下関で水産関係の仕事をしていた先輩が正月に帰省して、一攫千金も夢でないようなえらく羽振りのいい話をしたという。その上、自分を頼ってくれば、若い者の仕事ぐらい簡単にみつけてやると大言壮語したものらしい。
日頃単純労働の繰り返しで面白くない日々を過ごしていた彼は、早速この話に飛びつき、その男に事前の相談もせず、製糸工場を退職、みんなから餞別など貰って勇躍下関へ出かけた。
ところが行ってみれば、聞くと見るとは大違い、その男は漁船の一船員に過ぎず、とても後輩の面倒を見る程の力はなく、酒の上での話を真に受けて訪ねてきた彼にただ当惑するという有り様。
しかし彼にしてみれば、餞別を貰い送別会までしてくれた郷里の人への手前帰るに帰れない。当惑思案している時にふと思い浮かべたのが私の顔。吉隈炭坑と私の名前だけを頼りに尋ね尋ねして、やっと辿り着いたと言う次第である。
以上、聞いている私がイライラするような、たどたどしい語り口で説明し、なんとか吉隈炭坑で働かして貰いたいと繰り返し懇願する。
窮鳥懐に入れば漁師もこれを撃たずと言うが、飛び込まれた私は甚だ迷惑である。なるほど当時の吉隈では直接夫こそ募集しているものの、その他の職種に欠員はない。
本人は採炭夫でも何でもやりますと言うが、あまり頑丈そうには見えないその体では、三日と勤まりそうにない。仮に続いたとしても並み以上の働きをして貰わねば私の立場が無い。
とつおいつ思案するものの決心がつかない。しかしこの時刻となっては郷里に帰らせようにも最終列車にも間に合わず、今夜のところは泊めるしかない。
翌朝になっても彼はひたすら「何でもするから」を繰り返すばかりである。まあ三日もすれば本人の方から逃げ出すだろう。本人がああまで言うのだから、ものは試しやらせてみるかと、甚だ無責任な結論をもって私は出勤した。
労務次席の灰田藤吉さんに事情を打ち明け、現場には迷惑をかけるが試用期間だけでも使って貰えないだろうかと相談した。すると灰田さんは「貴方の親戚の人を無理な採炭夫にという言うわけにはいかないでしょう。そういう人なら売店の売り子はどうですか。ちょうど近く欠員になる予定がありますから。」と言ってくれた。
本人は私の母方の、しかも血の繋がらない遠縁に過ぎないのだが、たまたま同姓であるところから、灰田さんはもっと近い親戚と誤解しているようだ。そこの所はよく説明したのだが、昔気質の灰田さんは、どうも私が遠慮して言っているものと思い込んでいたようだ。いずれにしても、灰田さんの配慮で彼は売店で働けるようになり、私もひとまず安堵したことであった。
それから暫くして、今度は順子の妹を通じて人の就職の依頼を受けた。とりあえず本人に面接してみると、今まで中小炭坑で採炭夫をしていたとか、ガッチリした体格で真面目そうな印象である。これなら直接夫としても十分勤まるように思われたので、募集係に紹介し採用して貰った。
古瀬七男というその男は、妻と男の子二人という家族持ちであったから、早速社宅を必要とするのだが、生憎社宅に空き家がなく、とりあえず炭坑周辺の農家の納屋を借りて住まわせることとした。
本人もなかなかしっかりとした面構えてあったが、わが家に挨拶に来たとき初めてみた細君は、鉱夫のおかみさんには珍しい気品のある顔立ちであった。二人とも熊本県菊池郡の出身と聞いたが、どうして中小炭坑などへ流れて苦労して来たのかなどは、あまり語りたがらないそぶりであった。私もしいて質さなかったが、あるいは菊池の良家育ちの恋の道行きではないかと想像したりしたことであった。
私が保証人になったということもあって、その後気をつけて見ていると、休むこと無く出勤しているようであるし、三坑主任の土谷真澄さんを通じて聞く現場の評判も悪くない。たまに彼と顔を合わせた時など「小炭坑(こやま)の時のことを思えばここは天国ですよ。」と語る彼の笑顔をみていると私まで嬉しくなったきた。
好事魔多し。三ヶ月ばかり経ったある日、古瀬君が昨日喀血して今日から休んでいると私に知らせてくれた者がいた。早速彼の住まいに飛んで行ってみると、床板に敷いたムシロの上に煎餅布団を延べて彼が寝ている。
私を見ると彼はいたく恐縮して身を起こしながら「申し訳ありません。」と言う。細君は二才と当才の二人の子を膝に、これまた申し訳なさそうにうな垂れている。枕元には食べ残したおじやの入ったニュームの鍋と縁の欠けた茶碗が一つ転がっている。
私は「しっかり養生して早く良くなるんだぞ。」と在り来たりの見舞いを述べて外へ出たが、滅入り込むような暗澹たる気持ちはどうしようもなかった。
肺結核ともなれば半年や一年療養にかかるのは当たり前、肉体労働の職場復帰には少なくとも一、二年はかかる。その間治療費は健康保険の給付で心配ないものの、傷病手当金に頼る親子四人の生計は随分と苦しいことになるだろう。療養に必要な栄養を摂ることなどは不可能に違いない。
しかしそれにもまして気になることは、たった三ヶ月の勤務で一年二年と病気療養される会社の迷惑である。就業規則があるから解雇ということにはならないにしても、そんな従業員を紹介した私としては、会社にこれ以上迷惑をかけないうちに処置すべきではなかろうか。あれこれ思い悩みつつわが家へ帰った。
古瀬君の発病のこと、その病床の有り様など話すと、順子は紙袋に米を入れ卵二つ(当時わが家では鶏を二羽飼っていた)を差し出し、とりあえずこれを古瀬さんの奥さんに渡して下さいと言う。
この一言で私は今までの迷いが吹っ切れたような気がした。そうだ。今あの一家を放り出してはいけない。とにかく彼に一日も早く癒ってもらう事だ。その他のことはまたその時のこと。そう決心し折り返し彼の病床に届けるとともに、「困ったことがあったら、先ず私に相談しなさい。金に困っても決して高利貸しの金を借りたりしないように。」と言い置いて来た。
その後二月ばかりしたある日、労務事務所で係員達が机の上に置かれた財布を囲んで話している。
「売店の前に落ちちょったち。この財布ば届けてきたさっきのカミさんは、なかなかのジョウモン(美人)じゃなかや。」
「ああ、古瀬んとこの女房たい。感心なもんじゃ。おやじが病気で暮らしの楽じゃなかろうて、たいていの者なら猫ババするところたい。」
「こりゃあだいぶ入っとるばい。いっそ落とし主の出て来んけりゃよか。すりゃ、あんカミさんのもんになっとじゃろう。」
・・・そんな会話を聞きながら、私もまた心密かに落とし主の現れないことを念じていた。
順子が米、卵、野菜、時には古着などをその後も幾度か届けたりしていたようだが、古瀬一家の生計には、何程の足しにもならなかっただろう。しかしそんな中で彼の病を克服する強い意志と細君のひたすらな願いは奇跡を生み、僅か三ヶ月余りで職場復帰を果たすこととなった。
それを聞いた私は余りの早さに驚くとともに、生活苦による彼の焦りではなかろうか、病気の再発を招きはしないかと危虞したものである。しかしそれは杞憂に終わり、彼は元気で仕事を続け、間もなく待望の社宅へ入居することも出来て、一家の生活も次第に安定して行ったようである。
私は昭和二十六年七月、本社労務課に転勤し、まだ住まいは吉隈社宅のままであったが、本社へ通勤するようになってからは、古瀬君一家のことは忘れるともなく忘れていた。
そんなある日夕方帰宅すると順子が
「古瀬さんが、今夜食事を上げたいから貴方に来て下さいとのことでしたよ。」と言う。
早速彼の社宅に行ってみると、狭い六三長屋(六畳、三畳二間ぎりの棟割長屋)ながら、きれいに片付けられ、チャブ台の上には細君の手料理が並べられている。
「職場に戻って満一年になりました。随分ご心配をおかけしましたが、お陰で暮らしもやっと落ち着く事が出来ました。今日はほんの心祝いのつもりです。何もありませんが召し上がって下さい。」と夫婦が膝を揃えて頭を下げる。
そう言われて、このところ彼等のことなど念頭に無かった私は、些か後ろめたい気もしたが
「そうか、もう一年にもなったのか、それにしても良かったね。おめでとう。」
と心から夫婦のささやかな幸せを祝福し、こもごも差してくれる杯を受け、心地よく酩酊したことであった。
しかし家の中を見回すと家具らしきものはなく、細君の着物と言えば初めて会った時に着ていたものと変わりないようである。こんな暮らしの中から無理して今夜の席を設けたのではあるまいかと考えると、その心根のいじらしさが胸に迫り、彼の健康と一家の幸せを祈らずにはいられなかった。
その後私は本社社宅に移り、また古瀬夫婦のことは忘れてしまった。四年ばかりたったある日ひょっこり古瀬君一家が訪ねてきた。
「ご無沙汰ばかりして申し訳ありません。おかげで下の子も小学校にあがるようになりました。」
と言う彼の傍らには、なるほど新しい学童服を着た男の子が二人かしこまっている。また、こざっぱりした着物でつつましく微笑んでいる細君もぐっと若返って見える。
かつて私が心密かに気にしていたことを察していたかのように、幸せになった家族をわざわざ見せに着てくれた彼の心配りが、私の胸にジンときたことであった。
昭和三十三年頃から始まったエネルギー革命の波が押し寄せ、筑豊から次第に炭坑が姿を消し、まだ操業中の炭坑でも、ヤマ(炭坑)の将来に望みを失った従業員が、次第に離山していく昭和四十年の春、何年かぶりで古瀬君が訪ねてきた。
彼の語るところによれば、長男はすでに工業高校へ、次男も今年高校へ進学するという。彼自身も今では職場でも古株になり、皆から大事にされるので居心地も良く不足は無いのだが、ヤマの将来が不安だ。今ならまだ転職も出来そうだが、これ以上年をとってからではそれも覚束ない。だから転職したいが私に了解して欲しいというのである。
私は十五年も昔の僅かな縁を忘れず、わざわざ私の了解を求めに来た彼の義理堅さに驚いたが、それより彼の為に良き就職先が見つかるだろうかと言う不安が先にたった。しかし仕事の合間にブルドーザーの運転免許をすでに取得したということを聞けば、その心配もあるまいと彼の転職を心から祝福することができた。
その折彼は、何も置き土産はありませんが、坊ちゃん(当時二才の次男)の玩具代わりにでもして下さいとチャボを二羽置いていったことであった。
その後私は東京へ転勤し、彼との音信も途絶えてしまったが、どうしている事だろう。きっとささやかながらも幸せな暮らしをしていることではあるまいか。
彼の事を思い出す度に、日頃とかく汚れがちな私の心は洗われ、人の世の幸せをしみじみと感じることが出来る。
古瀬君有り難う。
(平成二年)