年に一度の麻生OB会では、毎年珍しい人と出会い、驚きと喜びを新たにするのだが、昨年も久方ぶりに見る顔が幾人かあって、再会の喜びと長生きの幸せを感じたことであった。
ことに、はるばるブラジルから帰国中の城島さんが杖をついて出席し、極度に視力の衰えた目で、旧知の顔を求めて、会場をあちこち移動している姿が印象的であった。
往年の森繁久弥ばりのチョビ髭をはやした日高さんが大阪から駆けつけてて見せてくれた笑顔も、私にとっては三十年ぶりの事であった。久方ぶりに見る日高さんは、昔より一回り小さくなられたかなというのが第一印象であったが、昔語りをしているうちに、往年の威勢の良い取締役大阪支店長がよみがえってきた。
しかし、何よりも驚いたのは、久しぶりに拝見する典太専務のすっかり面変わりされたお姿であった。典太専務といえば、若い頃は大きな丸いお顔で、クルクルした眼、キューピーちゃんとあだ名されるような風貌であったのに、頬は痩け、顔色もすぐれず、別人と見まがう有り様には全くびっくりしたことであった。
何年か前に大病を患われたとか風の便りに伺ったことが思い出されたが、あまりの変わられように、胸も塞がれる思いで、体調の事は最後までお尋ねしかねたことであった。
しかし、こうしてOB会にも出席されるほど、体調も回復されたことだろうし、多少時間はかかっても、以前の明るくお元気な典太専務に戻られることを願っていたのに、年の瀬も押し詰った二十六日、訃報に接することとなってしまった
。
もう十三年も前のことになるが、長年お世話になった熊谷さんが春に、麻生太賀吉社長が十二月に相次いで亡くなられた時、一つの時代の終わりが感じられたことであったが、典太専務が亡くなられたことで、私の中で「麻生」が完全に過去の歴史となってしまった思いである。
太賀吉社長が怖い社長のイメージであったのに対して、弟の典太専務は、私たちにとって物分かりの良い兄貴と言った感じの存在であった。それは太賀吉社長が若くして社長に就かれ、ことさらに威厳を保つことを余儀なくされたのに対して、次男坊の気安さもあったに違いないが、格別気さくな専務のお人柄によるものであったようだ。
いずれにしても怖い社長と親しみやすい専務の取り合わせは、会社にとってまことに得難いコンビであった。
ワンマン社長の下で、とかく閉塞気味になりがちな社員の意見が、典太専務を通して社長に届くこともあったと思われるし、社員に遠慮なくものを言わせる雰囲気を備えられた専務の存在が社内をどれほど明るくしていたことだろう。
私が典太専務に初めてお目にかかったのは、終戦直後、上三緒炭鉱での実習生時代のことである。当時、戦争帰りの学徒社員を集めて行われた実習生教育の責任者が典太専務であった。
日常の指導は、技術系の福永安則さんや事務系の福井昌保さんらが担当していたが、専務はしばしばわれわれの宿舎である報国寮に来られ、食事をともにして雑談を交わされたりされたことであった。
また時には大浦のご自宅(今の大浦荘)に私どもを呼ばれてご馳走していただき、奥様共々ご歓談していただいたこともあった。とかく人見知りしがちな私も、専務の分け隔てないお人柄に引きつけられて、座談に加えていただいたことが思いだされる。
昭和二十六年六月、私は吉隈炭鉱労務係から本社労務課に転勤したが、その夏のボーナス支給持に、典太専務の随行を命じられた。
戦後の混乱期には、ボーナスらしきものもなく、盆には燈篭代、年末には餅代と称して僅かばかりの金一封が支給されたに過ぎなかった。その後、朝鮮動乱を契機に日本経済も本格的復興期を迎え、わが社でも初めてボーナスらしきボーナス(それは確か給与の一ヶ月分相当額だったかと思われる)が支給されることとなった。
それを機会に、重役方が手分けして各事業所に出向き、職員の一人一人に手渡されることとなった。その折、典太専務が遠隔事業所の山田、岳下、久原の各炭鉱を回られることとなり、私がそのお供を仰せつかったものである。
多くの社員のボーナス(それはいまだかつて私が手にしたこともない大金だが)を持参することでもあり、気さくなお人柄とは心得ていても、平社員の私にとっては雲上人の専務のお供だから、私は少なからず緊張したことであった。
こうした事業所への賞与授与は、後には会社の乗用車を使うようになったが、その時は山田炭鉱までは会社の車で行ったものの、それから先は深夜博多駅発の夜行列車で佐世保へと向かった。
多額の現金を抱えての夜汽車の旅は、まことにオチオチなく、翌朝佐世保駅に無事降り立った時は、ひとまずホッとしたことであった。
しかし、あまりの早朝で、岳下行きのバスの発車までまだ相当の時間がある。人気のないガランとした駅の待合室で時間をつぶす他はないと思っていたら
「佐藤くん、腹が空いたね。どこかその辺で何か食べようじゃないか。」
と専務は言われる。
「でも、こんな時間では、まだレストランなども開いてないでしょう。」
と応えると
「あそこの明かりは食堂じゃないかね。」
と言われながら専務は、もうそちらの方へ歩み始める。
見ればなるほど駅前広場の向こうに灯りのついた一膳飯屋とおぼしき店があるが、労務者相手の簡易食堂で、その薄汚さは私でさえ尻込みするような代物、とても専務が入られるようなところではない。あたりがまだ薄暗いので専務は勘違いされたのだろうと思ったが、専務はお構いなく、その汚い食堂へズンズン入って行かれる。仕方がないので私もお供して入り腰掛ける。
間口が一間、奥行きが二間ほどの土間に食卓が二つ並び、その周りに七、八人くらいかけられるほどの椅子があるが、客は向こうのテーブルで労務者風の男が一人、ドンブリを抱えているのみ。
十五、六の女の子が前掛けで手を拭きながら奥から出てきて専務に向かい
「オイシャン。なんにする。」
と怒鳴るような口調で尋ねる。その不作法さ加減に呆れていると、専務はいささかも動じることなく、
「佐藤君、親子丼でいいだろう。」と注文される。
やがて縁の欠けた丼に盛った親子丼を先程の女の子が運んできて、乱暴な手つきで置いていく。どうもあまりゾッとしない感じだが、専務のお供だから仕方なく箸をとる。夜行列車に揺られてきたせいか、思ったより旨いが、それにしてもいかにも美味しそうに食べられる専務には、ほとほと感服したことであった。
私が労務課から文書課に移ってからは、重役室の隣でもあり、また秘書業務も兼ねていたので、専務はよく文書課の部屋に来られて雑談されることもしばしばであった。おかげでユーモアを交えた専務独特の愉快なお話を随分と伺うことができた。
戦時中、専務は小倉の陸軍造兵廠に技術将校として勤務されたことがある。その頃同僚の将校と二人で民家に下宿されていたようだが、専務があまりにも身なりを構われないので、下宿の小母さんが
「麻生大尉さんは麻生財閥の御曹司ということだけど、とてもそうは思われないわ。ひょっとしたらお妾さんのお子さんじゃないでしょうかね。」と陰で噂したとか。
「少しは身なりを構わんと妾の子にされるぞ。」と同宿の将校に言われたものだと、笑って話されていた。
ある日、専務宛ての封書が届き、ちょうど文書課の部屋に立ち寄られた専務にお渡ししたところ、差出人の名前を見てちょっと首をかしげておられたが、中身を読まれて
「珍しい人から手紙が来たものだ。ほらいつか話しただろう。僕を妾の子にした下宿の小母さんだよ。まだ元気にしてたんだね。ところで佐藤君、今度、古賀なんとかという子を会社の給費生にしたのかね。」と尋ねられる。
「はい。今年久留米の明善高から東大工学部に合格した学生で給費生に採用しましたが、それがどうかしたのでしょうか。」
「いやー。縁とは不思議なものだね。その子はこの小母さんの甥に当たるのだそうだ。今度麻生のお世話になることになったと聞いて、お礼かたがた今後もよろしくという便りだよ。」
聞いて私もビックリしたことであったが、その古賀悦之君は無類の秀才で、東大工学部応用化学科からさらに大学院に学び、卒業後は麻生セメントに入社、会社の頭脳として随分活躍した。その後四十六歳の若さで取締役に抜擢され、泰社長の参謀として将来を嘱望されていたようである。
彼を掘り出してきた私も、内心鼻の高い思いもしたし、また今後さらなる活躍を期待していたところであった。
ところが、才子薄命と言うのだろうか、その古賀君が今年一月四日、蜘蛛膜下出血で突然死してしまった。
典太専務と古賀君とは直接的な交流はなかったようだが、上のような因縁を知る私には、専務の死を追いかけるようにして古賀君も旅立ったように思われた。
典太専務の葬儀の日、ご令息の遺族挨拶の中で
「亡くなった父は、ゴルフ、射撃など自分の好きなことをして、子供の自分から見ても、うらやましい幸せな人生でした。… 」というお話があった。
そういえば典太専務は、クレー射撃では東京オリンピックの審判をされたこともあったし、ゴルフも堪能で、飯塚麻生カントリークラブの設立も、専務のお力によるものと伺っている。
だが果たして、ご令息の言われたように、ご自分でも満足された人生であったかどうか。
専務が麻生以外の世界で人生を歩まれたとしたら、どうであっただろうか。人生に仮定を設けて想像してみたところで、所詮無意味なことにすぎないのだろうが、太賀吉社長を支えて、縁の下の力持ちに終始されたことを思うと、別の世界で自由気ままに活躍されるお姿を見たかったような気がしないでもない。
そんな思いは、太賀吉社長にもあったのではないかと思われる。いつかの社長訓示の中で、今日の社業発展は、専務が自分を扶けてくれたおかげであると、感謝の意を述べられたことであった。
昭和五十六年の暮れ、太賀吉社長の一周忌の法事の席で、久しぶりに典太専務にお目にかかったが、その折
「佐藤君。君は中小企業診断士の資格を取ったそうだね。そこで君に経営診断をして貰いたいのだが。」
と相談を頂いたことがあった。
当時専務は友人の勧めで、ゴルフ用品販売の会社を経営しておられたようだ。そんな話を風の便りで聞き及んでいたから、あるいはその会社の事かと思われた。だが、私は単に資格試験に合格したというに過ぎず、とても経営診断や指導など、私の及ぶところではないと心得ていたので、ご辞退申し上げたことであった。
後年、同社の経営が思わしくなく、その精算のために荒戸のお屋敷まで手放されることとなったとか聞き及んだが、あの折、及ばぬまでも一度はお受けすべきではなかったかと、思い返されて、胸の痛む思いがしたことであった。
太賀吉社長が他界され、麻生本家も太郎代議士、泰社長の時代へと代替わりし、典太専務も麻生の役員から引退されたようである。その頃、私自身もすでに麻生を退社しており、専務のお姿を拝見することなく歳月が流れていた。
昭和五十九年一月、私が世話人となり、東京麻生OB会を催したが、その折ゲストとして典太専務のご臨席をお願いしたところ、わざわざ九州から上京され、出席して下さったことであった。
当時は、柴田元常務をはじめ、在京のOB三十名ばかりが出席、久方ぶりの懐かしい顔ぶれとあって、会場の至る所で懐旧談の花が咲いたことである。
中でも土屋真澄、大羽八郎、秋葉圭五、久永知一の諸君等、かつての上三緒実習生に取り囲まれた専務は、三十数年前の昔に帰り。心ゆくまで歓談されたことであった。その日の会合がよほど楽しく思われたのだろう、後日わざわざ礼状をお寄せ頂き、痛く恐縮したことであった。
「久しぶりに古い懐かしい人に会え、思う存分喋らせてもらい、命の洗濯をしました。云々 」というお便りが、当日の記念写真とともに、今も私のアルバムの中に残っている。
(平成五年)
ramtha / 2011年3月10日