今朝の毎日新聞の投書欄に「不気味さを覚える過剰な自粛」と題する次に掲げるような一文が載っていた。
大分市の高崎山自然動物園で生まれた赤ちゃんザルの命名騒動に思うことがありました。抗議の中には「不敬」とか「日本の恥」と言うものまであったそうですが、その言葉に今の日本の不気味さを思わずにはいられないのです。 「不敬」とか「日本の恥」という抗議は、英国への配慮というより過剰な「自粛」であり、英王室の「名付けは所有者の自由」というコメントの方がはるかに冷静で理性的な見解でありましょう。一見相手を思いやるような情感的な言動は、ともすれば、自由な意見を駆逐し理性的な判断を阻害しかねません。命名騒動がその危険性を暗示しているように思うのです。
今回の先に見えるのは、伸びやかな世間感覚の排除であり「もの言えば唇寒し」という時代の到来ではないでしょうか。そして、さらにその先に偏狭な思想の押し付けと翼賛的な行動の強制をイメージするのは杞憂でしょうか。平和な生活がじわじわ狭められているような気がします。
「人さまざま」とは、しばしば経験することではあるが、右の投書を読んでこういう考えをする人もいるとは思いもつかなかったことで、いささか驚いた。
高崎山猿命名騒動については、私もその最初の報道から見ていたから、一連の騒動については承知していたが、猿の名前に英国王族のお名前を借用するというのは、「大騒ぎすることでもないが、常識ある大人のすることでは無い」と言うのが私の感想であった。
この投書者は王室のコメントについて記しているが、英国国民の中に不愉快な思いをした人がいるのではないかという事には触れていない。だから他人の気持ちを忖度する能力の有無は分からない。
そこで、まず投書者本人に聞いてみたいのは、国の内外を問わず、猿に天皇陛下のお名前「明仁」が借用された時、不愉快に感じるかどうかである。
それは考えていなかったというのであれば、大人としての想像力欠如で、人間失格と言わねばならない。
また英国王室のコメントをそのまま受け止めているようであるが、公式機関のコメントというものは、概ね人情の機微を表にしないものであることも心得ていないようである。
この投書者は山口県在住七十二歳の僧侶であるというが、人を見て説法するには、人間社会の機微に通じ、細心な配慮がなくてはと思われるが、この投書の限りではいささか覚束ない。
年齢七十二というのであれば相当の人生経験をしてきたことと思われるが、思考の未熟さばかりが目に留まるところからすると、あるいは極端な恐怖症患者では無いかと思われるがどうなんだろう。
(平成二十七年五月二十三日)
ramtha / 2015年10月12日