食生活の向上と抗生物質の出現で、かつては労咳とか肺病と言って恐れられていた肺結核も、今では何処にそんな病人が居るんだろうと思われるほど聞かなくなった。これ程結核患者が少なくなったのはいつ頃からだろう。
昔は不治の病として恐れられ、肺病患者の家では、病人を別棟や納屋などに隔離し、他人の目からひた隠しに隠していた。
もし肺病患者が居るとわかると、村八分同様誰も寄りつかなくなる。そんな病でありながら、安静と栄養以外に治療法が無く、多くの患者はただひっそりと死を待つのみという有様であったようだ。
私は三回発病している。最初は小学校四年の時で一年間学校を休み、当時ドイツ留学で学んで来られた宮下博士から、気胸療法による治療を受けた。
二度目は昭和二十年内地防衛部隊として、鹿児島県志布志に駐屯しているとき、演習の最中に喀血した。この時は戦争末期で、米軍の志布志湾上陸が取り沙汰されるという緊迫した時でもあり、結核に対する治療薬も無いその当時、医務室へ行ってもまともな処置も期待出来ないのでそのまま放置した。しかし私の結核はどうした気まぐれであったのだろう、二度ほど喀血しただけで、いつの間にか自然治癒したようである。
三度目は昭和三十年不摂生な生活と過労から発病、飯塚病院に入院加療を受けることとなった。
当時は戦後十年、世の中もようやく落ち着きを取り戻し、食生活も随分向上していたものの、戦中、戦後の粗食と過労の蓄積のためか、結核に罹患する者が多く、飯塚病院では独立した結核病棟があり、確か百名近くの患者を収容していたように思う。
軽症患者は一室十名の大部屋に、重症患者は二人一室の小部屋であったが、私は職場からの業務連絡などがあるということで、特に個室に入れて貰った。
私が入院した時、同じ病棟には福沢正次郎さん、大場富雄さん等かつて麻生に在職されていた方や、在職中の後藤卯信さん(セメント経理畑で、その頃は熊本県白石の石灰工場長)、高山久則さん(石炭販売課長)等が入院されていた。
またかねて家内が親しくして頂いていた飯塚病院研究科の後藤恒子さんも居られ、私の後からは、同じ労務課の神垣明君や百津昭四郎君、採鉱の小山勇信君も入って来たことであった。
その頃の結核の治療は、ほとんどがヒドラジッドとパスを服用し、ストレプトマイシンの注射によって結核菌の活動を抑え、安静と栄養摂取によって体力の恢復を図るというものであったが、発病当初の微熱や倦怠感などは、最初のストマイ注射で嘘のように解消し、後はさしたる自覚症状もない。
だから終日安静にしてなければならない毎日は、まことに退屈なものである。私の場合は幸いにして前述のような知人が加療仲間にいたので、安静時間が終わると、お互いに病室を往来して退屈凌ぎをすることが出来た。
今どきの病院では、病室にテレビも設置されているようだが、その頃は漸く街の喫茶店などにテレビが置かれ、店先に「テレビ放映中」の看板を出して客を呼ぶという時代で、まだ一般家庭にまでは普及していなかった。
だから入院患者の無聊を慰めるものとしては、殆どの人がラジオを持ち込み枕元に置いていた。私もプロ野球や大相撲などの実況放送は欠かさず聴いたことであったが、その他は歌謡番組が多く、ダイヤルを回しても、どの局からも同じ歌手の歌声が流れて来るという有様であった。たしか三橋美智也、島倉千代子といった歌手がデビューした頃だったように思う。
またその頃、この病棟の患者を相手とする貸本屋が毎週巡回してきたが、文藝春秋、中央公論、オール読物などの月刊誌を一週間毎に交換貸し出ししてくれていた。たしか当時の月刊雑誌一冊分の定価相当額で、五冊ばかり読ませてくれていたようだ。
こんな貸本屋があることは、病棟の先輩の大場さんに教えて頂いたことであったが、そのうちに彼と話し合って、それぞれ異なる雑誌を注文して、貸出期間(一冊につき一週間)中に相互に交換して、借り賃の二倍の雑誌を読んだりしたものだ。この借り雑誌で松本清張の「ある小倉日記伝」や、五味康祐の「喪神」と言ったその年の芥川賞作を読んだ事など思い出す。
しかし、病床での読書は、本を両手で抱えていなければならず、長時間その姿勢はしていられない。だがそこは良くしたもので、病床での読書の為の書見器があった。ちょうど発熱時に使用する氷嚢を吊り下げる器具と同じ要領で、頭上に延びる腕木から吊り下げた横木に本を置き、自分の目の位置に合わせて前後左右に調節できる。
これを利用すると両手は布団の中に入れたまま読書が可能である。しかしページをめくるには、その度に手を出さなければならない。雑誌の二ページなど読むのは何ほどの時間もかからない。ことに真冬など暖房も無く、ことさら窓を開放した病室(結核病棟では新鮮な空気をという配慮から、こういうことになっていた。)は寒く、頻繁に手を出していると、氷のように冷え切ってしまう。
まことに横着な話だが、何とか手を出す回数を少なく出来ないものかと思っていると、それには詰め碁や詰め将棋の本が良いと、これも大場先輩に教えて貰った。早速試みてみたが、なるほどこれなら一問解いて裏の解答欄をめくるには相当の時間がかかる。
ことに私のような初心者であればある程度解答時間を要するし、ああでもない、こうでもないと思案しているうちに、思考疲れで眠り込む事もしばしば。安静に努めるにはこの上も無い。お陰で入院中に詰め碁、詰め将棋の面白さを知ることができたが、棋力の方はさして向上したようにも思われなかった。
先頃何年かぶりで大場さんと再会したが、その折「あの頃の詰め将棋の本が今でも書棚に並んでいますよ」と聞き、入院当時のあれこれを思い出したことであった。
大部屋の患者に岳下炭坑の棹取(さおとり=運搬夫)で通称タケやんと言う男がいた。年格好は私より幾つか下のようだったが、性格は滅法明るく、多少野放図なところがあり、人懐っこい典型的な炭坑太郎であった。
かつて岳下炭坑の労務主任をしたことのある大場さんの病室によく顔を出していたので、いつしか私とも面識が出来、私の部屋にも遊びに来るようになった。その彼がある日こんな話をした。
「医者や看護婦は安静にしろ、安静にしろと言うばってん、安静にしとりゃ良うなるちゅうもんじゃなかですばい。私の隣の部屋の男なんざ、毎晩病院を抜け出し、パチンコはする、酒は呑む、時にゃ西町(当時は赤線と言われた特飲街があった)に遊びに行くやら、やりっ放しにしちょったが、来週には退院するげな。病気が良か方に向いちょる時にゃ、大抵なでたらめばしても治るし、悪か方に向いちょる時にゃどげん安静にしちょっても良うはならんとですばい。私の部屋の色の白か大人しいおっさんば知っとらっしゃるでしょう。あのおっさんは、医者が良かちゅう正月の外泊もせんで安静に努めとらすばってん、ちいとも良うなりよる風はなか。正月も家に帰っちょらんもんで、女房は他の男と二、三日前に逃げたげな。泣きっ面に蜂ですばい。薬も安静もちいたあ効き目もあるじゃろうが、やっぱり病人の勢いが上向いちょらな、どもならんとじゃなかでっしょうか。」
その彼がまた何日か後の夜にやって来て、ヒドラジッドとパスを差しだし、誰かこの薬を買ってくれる人はいないでしょうかと言う。私は彼自身に投与された薬を売るのかと思って、病院の処方通り服用せにゃ駄目じゃないかと諫めたところ、自分のではない、他人から頼まれたと言う。
彼の話すところによると、女性の大部屋に十六才ばかりの女の子が居る。彼女の兄は赤坂炭坑の採炭夫だったが、昨年労災事故で負傷し、今は坑外の仕事についているとか。乳飲み子を抱え苦しい生計をやりくりしている状態で、とても妹の面倒までは見切れないと言う。
しかし従業員の家族として入院しているのなら、入院費の負担も無い筈だし、完全看護だから食べるのにも困らないではないかと言うと、それだから貴方のようなお偉いさん方には貧乏人のことは分からないんですよと笑われた。
「そりゃ薬も食事もただですたい。ばって、それだけじゃ暮らされんでしょうが。早い話が石鹸、歯磨き粉、ちり紙なんざ毎日要るでしょう。長期の入院となりゃ下着の替えも必要。病院の食事では足らず、貴方だってひさご(病院前のうどん屋)から毎晩のように夜食のうどんをとって食べているやないですか。育ち盛りの女の子ですぜ、周りの人がうどんを啜っていりゃ欲しくなるのも当たり前、それに女の子となりゃ化粧品も要る。大部屋に居るとなりゃ下着や寝間着にしても、家に居るときと同じ物ですますわけにはいかんでしょうが。みんながラジオを持っていれば、それも欲しいでしょう。」
言われてみればそうである。入院費の要らない会社直営の病院でも、そうした日常の小遣いは絶対必要である。しかし彼女の場合、入院以来一度も家族の見舞いも無く、小遣いをくれる者もいない。そこで自分に投与される薬を金に替えることを考え、頼り甲斐のありそうなタケやんに依頼したものらしい。
聞くも切ない話だが、私にしても医師の処方に従って投与されるものの他に服用するわけにはいかないし、そんな薬を買いたいという人も知らない。なんだか後味の悪い気持ちが残ったが、その日は断って彼にお引き取り願った。
あとで担当の看護婦に聞いたところでは、同じように薬を貯めて売却する患者が他にも居るし、それを買い集める者も居るということである。どんな人が買うのかと尋ねたら、長期療養の末、保険切れになった人などが買っているようですよと言う事であった。
後日その少女が男性患者を相手に、小遣い稼ぎをしているらしいと言う噂を耳にし、あの時不要な薬でも買ってやるべきではなかったか、いや、とてもそんな事では彼女の転落を止め得なかったに違いない等と考え、その日は終日憂鬱な思いをしたことであった。
私の病室の左隣は三人部屋で、いずれも私より古い長期療養者であったが、その中で一番年かさの五十前後の小柄な男は、たしか元綱分炭坑の坑内夫ということであった。色白のもの静かな感じで、壁越しに他の二人の話し声が聞こえて来ることはあったが、彼の声を聞いたことはついぞ無かった。人の話では、彼は珪肺合併症とかで完治の望みは無いという事であった。
タケやんから聞いた話では、彼は病室で漬け物を漬けて患者仲間に売っているとか。病院の食事はどこでもそうだろうが、カロリーや栄養については十分配慮されていても、味は今ひとつ旨くない。
そこで、患者の多くは家族がしげしげ差し入れをしたり、海苔や佃煮などを買ってきて補給したりする。ところが彼の漬け物は飛びっきり安い上にとても旨いという評判で、利用する者も少なくないとか。
「あの親爺、寝ながらいい商売してますぜ。」とタケやんは言う。
隣の病室の前を通ったとき、窓のガラス戸越しに覗くと、ちょうど彼が漬け物を小さな樽に仕込んでいるのが見え、タケやんの話していたのはこれだなと思った。
あれはたしか二月下旬の雪の深夜だった。隣の部屋に当直の看護婦が、何度か慌ただしく出入りする物音で目が醒めた。隣室の患者と看護婦が声をひそめて話し、何か物を動かしている気配が感じられたが、私はいつしか寝入ってしまった。
朝になるとまた隣室で何かゴソゴソ物音がし、いつもとは違う様子である。検温に来た看護婦に尋ねると、隣の珪肺患者が昨夜首吊り自殺をしたと言う。声を交わしたことも無かったが、せっせと漬け物を漬けていたあの男が、どうして自殺したのだろう。
やがてタケやんの口から、先頃彼の女房が近くの男と駆け落ちしたことなど聞いた。治る見込みの無い珪肺の彼に、妻の裏切りが追い打ちをかけてのことだったのだろうか。
病棟をつなぐ渡り廊下の天井を伝う蒸気パイプにぶら下がった彼は、遺書などは何も残していなかったらしい。その日の午後、母親の蒸発以来、施設に預けられていると言う彼の子どもが二人、施設の先生に連れられてやって来た。
病室の窓下を通って、父親の遺体が安置されている霊安室へ向かう子どもの小さな後ろ姿が見られた。チラチラと粉雪の舞う午後であったが、昨夜彼がぶら下がった蒸気パイプは、いつものように音をたて、その継ぎ手から白い蒸気が盛んに上がっていた。
(平成二年)