今日の毎日新聞には俳人の津川絵理子さんの「蜻蛉の国の原風景」と題する次のような随筆があった。
秋の涼しさを感じる頃、蜻蛉(とんぼ)をよく見るようになる。オハグロトンボやイトトンボなど夏の時期から現れるものもいるが、俳句では蜻蛉は秋の季語である。
蜻蛉を踏まんばかりに歩くなり 星野立子
草に止まった蜻蛉を次々に飛び立たせながら歩く様子が目に浮かぶ。踏みそうになるほどたくさんの蜻蛉なのだ。「踏まんばかり」の表現に素直な驚きが込められている。
蜻蛉の古名は「秋津」。日本の国を「秋津島」とも言うが、水と緑豊かな日本には昔から蜻蛉が多かったのだろう。蜻蛉の国と名付けた古代人のおおらかさに思いを馳せる
母もまた母恋ふるうた赤とんぼ 高田正子
いつの時代も親子の情愛は変わらない。連綿と続く母恋の心が切ない作品である。「赤とんぼ」には郷愁を誘い、心の原風景を思い起こさせる力があるようだ。
このように日本では親しまれる蜻蛉だが、西洋では「悪魔の縫針」などと怖しい名前で呼ばれていた。嘘をつくと蜻蛉が耳を縫いふさいでしまうと言う迷信があったと言う。国や文化によってこれほどの違いがあるのは興味深い。
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村汀女
ふと立ち止まって辺りを見回すといつの間にか飛んでいる蜻蛉が増えたような気がする。誰もが経験したことがある光景。見たまま感じたままを俳句にして、童心を感じさせる句だ。
水叩く蜻蛉の秋となりにけり
蜻蛉がしきりに水を叩いているのは産卵しているのだ。あちこちでこんな光景を見かけると秋を実感する。蜻蛉の命の営みの中に大きな季節の循環を見出した伸びやかな作品。
今でもたくさんいるように思える蜻蛉だが、実際は数が減っていると言う。環境省の絶滅危惧種に指定されている種もある。蜻蛉の住みやすい環境を残していきたいものだ。
十年ばかり前までは、わが家の近くの相田川の土手を歩いていると、顔を避けるほどに無数の赤とんぼが飛んでいたものだ。今では全く見かけなくなってしまった。どうしてだろう。農家の高齢化で放棄されたままの田畑が増えているのだから、殺虫剤のせいとも思えない。
子供の頃は長い竹竿の虫取り網を振り回して蜻蛉を追いかけたものだが、小倉から戸畑へ通じるあの往還の辺りもマンションが立ち並ぶ住宅団地となっていると言う。
秋晴れの草原を駆け回った風景も、遠く淡い記憶の中でしか見られなくなってしまった。
夕陽背にとんぼ追いし児今いずこ 信良
(平成二十七年十月五日)
ramtha / 2016年2月11日