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悩ましい国語辞典」から

先日来「滅びゆく日本の方言」を読んでいるうちに言葉に対する関心が深まり、考えてみることにした。言葉は自分の考えや気持ちを他人に伝える手段である。しかし、そこに使われる言葉の解釈が話し手と聞き手の間で一致しなければ、誤解を生じることになる。

ところが一つの言葉がいくつもの意味を持っていることが少なくない。だが、話し手が正しい言葉使いをすれば、多くの場合間違いなく相手に伝わるものである。しかし、言葉は時代とともに変化し、新しい意味を持つようになることがしばしばある。私のような老人が、若い人の話言葉に違和感を感じることがあるのは、こういう時である。違和感を感じるのはまだ良い方で、聞いたこともない言葉に戸惑うことも少なくない。そこで神永暁氏の「悩ましい国語辞典」を購入、眺めてみることとした。

これを見て日常使用されている言葉で、今ではこんな意味に使われているのかと驚くものがあると同時に、私自身が、長年間違ったまま使って来た言葉もあり、今更ながら不勉強を思い知ることになった。その中からいくつか書き留めることにする。

(1)いたいけない(幼気ない)

「いたいけない」は、幼児の可愛らしいさまやその言動を表す言葉として、私自身も幾度か使ってきた言葉であるが、「幼気ない」と書くことは、ちっとも知らなかった。同書によれば「いたいけ」は「痛い気」で、かわいらしさが痛いほど強く心に感じられる様子であると言うのが本義であるらしい。

「ない」は接尾語で、その意味を強調し、形容詞化する働きを持つ。したがって「無い」と言う意味ではない。「切ない」「はしたない」などの「ない」と同様であると言う。

なお、広辞苑によると、子供の極めてかわいい年頃を「幼気盛り(いたいけざかり)」と言うそうだが、最近あまり聞いたことがない。少子高齢化で周りに子供が見られなくなったせいか、幼児教育でこましゃくれた子供ばかりになったのだろうか。いずれにしても寂しい限りである。

(2)「を」が「や」では意味が通らない。

「上を下への大騒ぎ」とは、上下の秩序も無くなる大混乱を形容する慣用句であるが、平成十八年の文化庁「国語に関する世論調査」では、本来の言い方である「上を下への大騒ぎ」を使う人が21.3%、従来なかった言い方「上や下への大騒ぎ」を使う人が58.6%となっている。
「上を下に」は「上の物を下にする・ひっくり返す」意味だから現状秩序が破壊され大騒ぎになるわけだが、「上や下へ」では、意味をなさない。どうしてこんな間違いをすることになったかわからない。自分の使う言葉に対する責任感が希薄になっているとしか言いようがない。

(3)「ひく」と「しく」

夜具としての布団を平に広げる事は「布団をしく」と言うのが正しいが、時に「ひく」と言う人がいる。「しく」は「敷く」で、ものを平に延べ広げるという意味である。布団だけでなく、絨毯、畳、ござ、わら、新聞紙、シートなど平に広げる場合は全てこの語を使う。

一方「ひく(引く)」にはこの意味はなく、ものを手前の方にたぐって近づけることを言う語である。首都圏の事務所に勤務していたとき、同じ事務所の若い女性が、「ひ」「し」をしばしば混同していたが、東京や千葉では「ひ」と「し」の発音が交代する現象が見られるようである。

例えば、「質屋」を「ヒチヤ」、「しつこい」を「ヒツコイ」、「額」を「シタイ」」「お浸し」を「オシタシ」のように発音する人が居る。田舎から上京して、自分の方言を笑われるのではと緊張していた当初は、これが標準語ではと錯覚することさえあった。

「敷く」を「引く」と言っている人の中には、ものを平に延べ広げる動作を、そのものを自分のほうに引き寄せると考えている人もあるのかも知れない。

(4)スコップとシャベル

「悩ましい国語辞典」では「東日本では大型のものをスコップ、小型のものシャベルといい、逆に西日本では大型のものをシャベル、小型のものスコップと言うことが多い」とあるが、どうだろう。

私は九州生まれの九州育ちだが、スコップと言えば土木現場で、土方がスコップで土をトラックの荷台に投げ入れる姿が目に浮かび、シャベル(ショベル)と聞けばチューリップなど花の苗を小学校の花壇に植えたことを思い出すので、西日本型ではないように思われる。

しかし最近では土木現場でも巨大なパワーショベルばかりで、ショベルのイメージが一変してしまった。しかし、私が考えていたショベルは、日本語では移植鏝(こて)と呼んでいた。そこで広辞苑を広げてみた。すると次のように説明している。

ショベル【shovel】→シャベル か-【~car】油圧式の大型シャベルを備えた土木作業用自動車。 ろ-だ-【~loder】パワーシャベルを取り付けたトラクター。土砂の移動・積み込みなどに用いる。

シャベル【shovel】砂・砂利・粘土など軟らかい土質を掘削し、すくうのに用いる道具。匙型鉄製で、木柄をつけたもの。シャブル。ショベル・スコップ。 か-(和製語~car)パワーシャベルに同じ。

スコップ【schopオランダ】①粉・土砂などをすくい上げ、また混和するのに使う。大きな匙型の道具。シャベル。掬鍬(スクイクワ)。②ボイラーに石炭を豆乳するときの一掬いの量。

これを見るとショベル(シャベル)は英語、スコップはオランダ語の違いはあるが、意味するところは同じである。そこで次はコンサイス英和辞典を見る。

shovel:シャベル。じゅうのう(十能)。大さじ(砂糖用の)。シャベル(じゅうのう)ですくう。シャベルで掘る。みぞ・道などを作る。

schopはもともとオランダ語だから、英和辞典には載っていない。

ところで、広辞苑の「いしょくこて(移植鏝)」には、野菜・花弁を移植するのに使う小型の鏝とある。
なお英語のspadeの項には、①すき(鋤)、踏みぐわ。②トランプのスペード。とある。

これを見ると、オランダ語のスコップと似たものを意味しているのではと思われるし、トランプのスペードのマークは移植鏝の形と酷似している。

(5)世間ずれ

まだ若いのに、妙に世故に長(た)けている人を「世間ずれ」がしていると言うが、平成十六年度の文化庁「国語に関する世論調査」では、「世の中の考えから外れている」と言う意味で使う人が32.4%、平成二十五年度の同じ調査では、なんと55.2%もの人が「世の中の考えから外れている」意味として理解していると言う結果となっていると言う。

なおこの傾向は若い世代になるほど甚だしく、十代では八割台半ば、二十代でも八割近くの人が誤解していたと言う。

広辞苑の「世間ずれ」では「世間にあって苦労し、悪賢くなっていること」と定義している。また、「世の中の考えから外れている」ことを表す言葉としては「常識外れ」を上げ、「世間での一般的な考え方から大きく外れること」と説明している。
なお「常識外れ」を表す別の言葉として「非常識」も載せている。

(6)誤解される諺(ことわざ)

「悩ましい国語辞典」の中で、著者の神永暁氏が「いささか恥をさらすことになるのだが」と前置きして、『故事俗信ことわざ大辞典第二版』(小学館)を読んでいて、へーそうだったんだ、知らなかったと思うことがしばしばあったと述べられ、次のように記されている。私自身も全く同じ誤解をしていたので特に印象深く感銘したので転記する。

まずは「灯台もと暗し」の「灯台」。何の疑問も持たずに、今まで岬の灯台だとばかり思っていた。だが『ことわざ大辞典』には、灯火をともす台、つまり室内照明具の事とあるではないか。なぜなら「岬の灯台は遠方を照らし、洋上の船に位置の基準を示すもので周囲を明るくするものでは無いから、比喩の理解に無理が生じる」というのである。言われてみれば確かにその通り見事にやられた感じである。

「覆水盆に返らず」の「盆」もそうであった。なんで「盆」、つまりトレイに水を入れるのだろうと不思議に思っていたのだが、深く追求する事はしなかった。『ことわざ大辞典』には、「この場合の盆は、食器などを載せる盆ではなく、素焼きで浅めの容器を指す」と解説されている。長年の疑問が氷解したわけだが、変だと思った事はすぐに調べなければいけないと反省もさせられた。

もう一つ「年寄りの冷や水」の「冷や水」。「冷や水」は、冷水で水浴びすることだと思い込んでいた。だが『ことわざ大辞典』によれば、「冷や水」は「用例や江戸いろはかるたの絵札を見ると飲料水」なのだそうである。つまり元来は、お年寄りが生水を飲むことをたしなめたことわざであったらしい。

ここで、こうした諺に接することのない若い人のためにそれぞれの諺の意味について広辞苑の説明を転記しておく。

灯台下(もと)暗し= 灯台(燭台)の直下は明かりが暗いように、手近の事情はかえってわかりにくいものである。

覆水盆に帰らず=(周の呂尚・・太公望が読書にふけっていたので、妻が離縁を求めて去った。後に尚が斉に封せられると、再婚を求めてきたが、尚は盆を傾けて水をこぼし、その水をもとのように返せばその請を容れようと言ったという故事) ①一旦離別した夫婦の仲は元にならないことを言う。②転じて一度してしまったことが取り返しがつかないことを言う。

年寄りの冷や水= (体の衰えた老人が生水を飲むことから)老人に不似合いな危ういことをするたとえ。また、老人が差し出た振る舞いをすることを言う。

「年寄りの冷や水」では、私は神永氏と同様に、老人が冷水を頭から浴びるものと誤解していたが、その意味するところは、広辞苑の解釈と同じに理解していた。神永氏の解釈は今一つ物足りない気がする。

(7)号泣

号泣(ゴウキュウ)は大声を上げて泣き叫ぶことを言う言葉だが、最近では「激しく泣く」意味にとらえている人が少なくないらしい。平成二十二年度の文化庁の「国語に関する世論調査)では、本来の意味である「大声を上げて泣く」で使う人が34.1%、従来なかった意味の「激しく泣く」で使う人が48.3%と逆転した結果となっているそうである。

神永氏の観察によれば、確かに最近は「号泣」という言葉を使いながら、これは明らかに声を出して泣いていないな、と推察できるような文章や会話に出会う機会が多くなった気がすると言う。

日本人は、中国や韓国の人々と異なり、喜怒哀楽を努めて表に出さないようにしていると思われる。身内の者の死に遭遇した時でも、人前ではハンカチで目元を抑えることはあっても、声に出して泣くようなことはしない。だから、よほどのことがない限り、号泣することはない。中国や韓国では葬儀のときに泣き女を雇って盛大に鳴き声を上げたりすると聞いているが、それは悲しみを示していると言うよりは、周りの人への見栄を張っているに過ぎないのではと思っていた。

ところが広辞苑の「泣き女」を見ると、
なきおんな【泣き女】不幸のあった家に雇われて泣くのをを職業とする女。能登の七尾市などではその代金により一升泣き、二升泣きなどといった。中国・朝鮮にもある。泣き婆。とむらい婆。

とあり、日本にも存在していたことを初めて知った。神永氏の「悩ましい国語辞典」によれば、以上のほかにも、今日では本来の意味とは違う意味に使われている言葉が数多くあるらしい。これでは、大正生まれの老骨が、テレビを見て理解できないことが度々あっても、諦めるしかないと納得した。

(平成二十七年十二月二十二日)

ramtha / 2016年4月2日