今日は晴れ後曇りから夜は雨となったが、比較的暖かな一日であった。八十年前の今日はずいぶん寒かったことを覚えている。当時、中学二年生だった私は、我が家に一つあったストーブのそばで、親父から「東京では大変な事件があっているらしい」と聞かされたが、何が起こったかまでは分からなかった。
今でこそ、あれは日本が軍国主義国家へ傾斜して行く転換点となった二・二六事件であったと理解できるが、当時はさまざまな風評が交錯して、長い間正確なことは知り得なかった。
毎日新聞では「二・二六事件きょう八十年」と題する次のような記事を載せている。
陸軍の青年将校らが決起し、日本近現代史上最大のクーデター未遂となった「二・二六事件」から八十年の二六日、東京都内二ヵ所で遺族らによる法要などが営まれる。同日午前、東京・渋谷税務署脇にある慰霊像の前で追悼式が開かれる。像は一九六五(昭和四十)年、青年将校らの遺族団体「仏心会」が建立、追悼式を行なって来た。同辺はかつて陸軍刑務所で、クーデターに失敗した将校らはそこで銃殺された。また午後には東京都港区の賢崇寺で法要が開かれ、将校の一人である安田優少尉の弟、善三郎さん(九〇)が参列する。同寺では戦前から法要が行なわれてきた。
優少尉は、斎藤実内大臣と渡辺錠太郎大将(教育総監)を襲撃、殺害した部隊にいた。熊本・天草出身で、戦前のエリートコースだった陸軍士官学校に進んだ。善三郎さんは「家族の誇りでした。帰省したとき、川にウナギを捕りに行ったりして、遊んでくれました。優しい兄でした」と振り返る。事件の三年前の昭和八年ごろ、兄が東京に戻るとき、軍刀を持って船着き場まで見送った。
それが最後の別れになった。事件後、優少尉は同志の青年将校らとともに銃殺された。
地元期待の星が、「国賊」となってしまった。善三郎さんは「家族はつらい思いをしました」と言葉少なに振り返る。一方で、犠牲者の慰霊に奔走してきた。渡辺大将が眠る霊園の場所を知った昭和五十年代後半から毎年、墓に参っている。荒れていたため、整備の費用を提供したこともあった。「償いとして、犠牲になった方たちのご供養を続けたい」と話す。
事件は昭和十一年二月二六日未明、青年将校らが「昭和維新」を目指して決起、下士官や兵およそ千五百人を率いて首相や大臣、陸軍高官を殺傷し、国会議事堂や首相官邸など政治の中枢部を一時占拠したが、鎮圧された。軍法会議の結果、将校を含む十九人が銃殺されたがこの事件について今日の学校の近代史ではどのように扱っているか知らないし、私自身未だにその真相を把握できていないが、私なりに感じ、考えていることを整理してみる。
①この事件には青年将校らの憂国の情熱による行動と、陸軍上層部の統制派(宇垣一成・永田鉄山)と皇道派(荒木貞夫大将・真崎甚三郎・柳川平助・小畑敏四郎)との対立抗争の二つの面があることを心得て見なければならない。
②昭和四年十月、ニューヨーク・ウォール街の株価暴落に始まる世界恐慌の影響で、昭和初期の日本は不況のどん底にあった。当時、私はまだ小学生でよくは分からなかったが、母の女学校の後輩という婦人が、熊本から北九州に仕事を求めて来たと、暗い面持ちで、母に相談していたことがあった。
ことに農産物価格の下落は甚だしく農村は窮乏し、婦女子が身売りしているなどということも、大人たちの会話で耳にしたことを覚えている。
手元にある「日本史年表」を見ると昭和九年十月、東北地方に大冷害、帝国農会、農村被害四億九千万円と発表とある。
③二・二六事件の青年将校らも、自分の部下の兵たちの身の上話から、姉妹が身売りしなければならないような貧しい農家の実情を知り、その正義感に火がついたに違いない。
だから、事件後彼らは極刑に処せられたが、一般庶民の受けとめ方は、むしろ彼らの行動に共感し、彼らを英雄視していたのではなかろうか。私も同様な考えをしていたことからすると、私の考えに影響を与えた回りの大人たちも同様な考えであったと思われる。
④今から考えると、いきなりクーデターのような実力行使に訴えるよりも、ほかに方法はなかったのかと思うが、当時は陸軍が政治に干渉し、政府が必要とする以外、内外の情報を広く国民に公開するようなことは行なわれず、青年将校らも、世界はもちろん日本の政治・経済に関する知識も、あまり持って居なかったのではなかろうか。また今日のように民間人がマスコミなどに自分の意見を述べたり政府の施策を批判するようなことは許されず、そういう風習も育って居なかったことと思われる。そうしたことがややもすれば短絡的な実力行使に走る風潮を醸していたものと思われる。
⑤なお、この記事でも、私の手元にある広辞苑や日本史辞典(角川書店)でも、この事件の終末の様子については記されていない。どうしてだろう。
それとともに、千五百人もの反乱軍があれだけの事件を起こしながら、その後事件は拡大することなく、短時日のうちに反乱軍は投降解散している。どうしてだろう。不思議ではないか。
⑥私の記憶によれば、福岡県嘉穂郡大隈町出身の香椎中将が鎮圧軍司令官として反乱軍兵士に対し、多分拡声器を使用したことと思われるが、「お前達は上官の命令に従っただけで罪はない。今からでも遅くはない。ただちに兵器を差し出し投降せよ。これは天皇陛下のご命令である」という趣旨を伝え、反乱軍将校らも、兵士に投降を勧めたので平穏に終熄したと聞いている。
⑦私の記憶によるものだから、確かなものとして断言することはできないが、前代未聞のこの事件が、かくも速やかに終熄することができたのは、ひとえに「天皇陛下のご命令である」の故であると考えている。
このときの香椎中将の呼びかけは「兵に告ぐ」という言葉として「今からでも遅くはない」とともに、今風に言えば当時の流行語となったと覚えている。
⑧香椎中将の反乱軍鎮圧については、私の手元にある日本史辞典にも広辞苑にも記載されていない。香椎中将がこの事件鎮圧の最大の功労者であるにも拘らず、無視されているのはなぜだろう。未だに不思議でならない。
⑨東京・渋谷税務署脇に青年将校らの慰霊像があることも、彼らの遺族が「仏心会」という団体を組織していることも、この記事で私は初めて知った。像は昭和四十年に建立されたということである。
昭和四十年と言えば、東京オリンピックの翌年である。第一次佐藤栄作内閣の下、高度成長真。盛りで、最早慰霊像を建立しても誰も問題にしない時代となっていたのだろう。それにしても事件後三十年、まだ当時のことを記憶して居る人も少なくなかったに違いないが、問題なく建立できたということは、やはり彼らに共感するものがその記憶の中に残っていたからではないかと思われる。
⑨安田善三郎さんが、青年将校の一人である兄を偲ぶ追悼式に毎年参列するとともに、犠牲者の慰霊に奔走し、その供養をも毎年続けているという話は、日本人ならではの思いを深くする。
冥土へ行けば、俗界の敵味方、それぞれの恩讐を超えて均しく御仏となるという日本人特有の思想は、他の民族には理解しがたいことかも知れないが、今後とも大切にしたいものである。
ramtha / 2016年5月19日