昭和四十六年に上京、家族ともども東京都目黒区に転居した。長年、田舎暮らしをしていたので、当初は都会の目まぐるしい人の動きに戸惑うこともあったが、やがて、超満員の電車に乗り込む要領を身に付け、都会の生活にも慣れて、違和感なく毎日を過ごしていた。
昭和五十年秋、かって我が家に寄宿していた長女の友人と家内の末弟が結婚することになり、その祝儀に出席するため、長女と二人で四年ぶりに飯塚へ向かった。
小倉で新幹線からローカル線に乗り換えたときは、すでに周りは夜の景色となり、小倉こ戸畑・八幡と続く沿線には、色さまざまなネオンが明滅し、首都圏と変わらぬ夜景が見られた。ところが折尾を過ぎて筑豊線に入ると、途端に車窓から見る景色は一変し、人家の灯が散見されるだけの田舎の夜景が続いた。
「筑豊の夜って、こんなに暗かったかしらね。」
と長女が呟くほど、都会の夜の明るさとの落差を痛感したが、私達が感じたその明暗の落差は、昭和初期と今日の照明の違いと同様のものであったことと思われる。
月日の経過が夜と昼との繰り返しであることは、地球が出現して以来三十六億年とか言われる間、変わりなく続いてきたのだろうが、人類は照明を手にすることで、夜を明るくしてきた。文明の進展は、照明の進化とともにあったと言える。
原始人が、石を打ち付けることで、自ら火を熾(おこ)すことを発見し、その火を燃やし続けることで夜の照明とすることが出来た。それによって、ひたすら休養するしかなかった夜にも、行動することを覚え、その後、獣の脂・胡麻や菜種などの植物油を照明材料とし、次第に進化を遂げ、江戸時代には、広く行灯(アンドン)が使われていたことは歴史の教えるところである。
殊にエジソンの発明による電灯が現れて、人類の夜は飛躍的に明るくなった。
私の両親が育ったころは、まだ蝋燭(ロウソク)や石油ランプで暮らしていたようで、石油ランプの火屋(ほや)に付着した石油の煤(すす)を毎日のように拭かされ、苦労したものだという話を聞かされていた。
(註)行灯(アンドン)=木などの枠に紙を貼り、中に油皿を据えて灯火をともす照明具。室内に置くもの、柱に掛けるもの、さげて歩くものなどがある。
(註)石油ランプ=灯油を燃料とする照明器具。金属製もしくはガラス製の油容器・口金物・ほや・笠などから成る。
(註)火屋(ほや)=ランプやガス灯などの火を覆うガラス製の筒。
しかし昭和初期、私が幼児期を過ごした北九州では、庶民の家庭でも、ほとんどが電灯をつけていた。もっとも、当時の電灯は白熱灯の裸電球で、電球の先端に製造時空気を抜いた跡のトンガリがついていた。電灯の下を通る時は、このトンガリに頭を当てると痛い目にあったりした。だが製造技術が改良されたのだろう、間も無くこのトンガリは無くなった。
今でも白熱灯の電球はフィラメントが切れて駄目になることがあるが、当時のフィラメントはちょっとした衝撃にも切れやすく、電球は寿命が短いもので、大事に扱わねばという思いが子供心にもしみ込んでいた。
電気代の節約のため、多くの家庭では、一つの電灯の下に家族みんなが集まり、大人は夜鍋をし、子供は勉強したりしていたものである。
靴下の繕いをしていた母親が手を休め、お茶を入れると、読書をしていた父親も、宿題をしていた子供達も、飯台の周りに集まる。それぞれが湯飲みを抱えて、その日見聞したことや、学校での出来事など、一家団欒の会話が交わされることが毎晩のようにあった。
その折の両親の話で、ものごとの是非善悪の判断や言葉遣いなどが、いつとはなしに伝えられていたような気がする。また、そこで聞かされた諺の幾つかが、今も時折浮かんできたりする。あのひとときが、貴重な家庭教育の場であったと、今にして思われる。
家族一人一人が個室を与えられ、テレビを見ながら、無言の食事が終わると、そそくさと自分の部屋へ閉じ込もってしまう今の世代の暮らしを見ていると、日本人は何時から家庭を喪失してしまったのだろうかと思われ、ここから巣立っていく子供達は、果たしてどんな人間に成長して行くのだろうかと、気にかかってならない。
白熱灯から蛍光灯に変わったのは、戦後のことに間違いはないが、いつ頃のことだ。たか良く覚えていない。ただ、初めて我が家に蛍光灯を取り付け、スイッチ用の下げ紐を引いたとき、点灯するまでやや暫く待たされたこと、点灯したとき、その明るさに驚いたこと、そして、かすかだが、地虫の鳴いているような音がして、なんだろうと思ったことを記憶している。
蛍光灯はその明るさと、電球のように突然切れることが無いなど、まことに便利な新製品であると広く歓迎されたが、それだけに、点灯に時間がかかることが、唯一の欠点として印象づけられたらしい。反応のやや遅い人に「蛍光灯」の異名を進呈することが一時流行したことがあった。耳が遠くなり、杖を頼りにする今の私は、さしずめ「使い古した蛍光灯」と言われても仕方がない有様である。
初めは剥き出しだった蛍光灯の管も、いつしかプラスチック製のカバーで覆われるようになって、外観は良くなったが、それだけ明るさは失われることになった。
キャバレーやホテルなどでは、高級な雰囲気を演出するためか、凝ったカバーで、ことさらに照明度を抑えているようだが、無粋な私などは、エネルギーの無駄使いとしか思えない。
最近では来客も無い隠居暮らしの我が家では、家内ともども目も薄くなって来たので、蛍光灯のカバーはすべて取り外してしまった。
手許だけを照らす電気スタンドは、いつ頃から世に現れたか定かな記憶は無いが、高校受験を控えて、夜遅くまで机に向かっていた昭和十三年には、お世話になっていた。しかし、今日就寝前の読書に使っているクリップ付き式のベッドライトは、ずっと前からあったのかも知れないが、私が使い姶めたのは平成になってからである。
ここまで屋内の照明について記してきたが、屋外での照明はどうだったか、思い起こしてみることにする。
昭和三十三年、会社の人事担当者として、採用対象者の身元調査で鹿児島県市比野町へ出張した。目的の調査を終え、その家を辞去したときは、すでに夜の帳(とばり)が下り始めていた。その日宿泊予定の市比野温泉の灯が僅かに右前方に見えている。あれを目当てに行けば良いと、田舎の田圃道を歩いて行った。しかし辺りは真暗で足許も良く見えない。こんなことなら先程の家で勧められた提灯(チョウチン)を、遠慮したりしなければ良かったと思うが、後の祭りである。仕方なく恐る恐る進んで行く。すると暗闇の中から「お晩です」と挨拶する女の声に立ち止まると、目の前に突然牛の顔が現れてびっくりした。農家の主婦は日頃からこんな暗闇の中を歩き慣れているのだろう、狭い畦道へ牛を引いて平然と立ち去って行った。その後、なんとか宿に辿り着き一安心した。私は戦時中、灯火管制下の夜を何度も経験しているが、こんな真っ暗闇は初めてであった。しかし考えてみれば、昔の人々は、毎晩こんな暗闇の中で過ごしていたに違いない。
物の本によれば、昔は松明(たいまつ)で夜道を照らしたり、神社の夜祭りや夜戦の陣営では、篝火(かがりび)が焚かれたりしていたらしい。
私が育った頃は塾通いも無くナイターなども無かったから、子供が夜外出することは滅多に無いことで、たまにあっても、多くは大人に連れられてのことであった。
その頃は町中でも街灯は少なく、店も早仕舞いしていたから、提灯を下げて出かけていた。中学生の頃には、懐中電灯もあったように思うが、定かな記憶はない。
今日見かける提灯と言えば、盆提灯か居酒屋の赤提灯などだが、これも中には電灯がともされており、蝋燭をともした昔のものとは、全くの別ものである。
蝋燭が太平記に登場しているところを見ると、提灯もずいぶん昔から用いられていたようである。しかし油も蝋燭も高価なものであったから、多くの庶民は夜の外出を控え、屋内でも暗闇の中で辛抱していたに違いない。
今日では、私の住んでいる郊外でも、要所要所には街灯が設けられており、懐中電灯という便利なものもあるので、夜歩きが出来ないなどということはない。
しかし、それで昔より安心出来るかと言うと、そうではない。テレビのニュ-スで、凶悪犯罪の伝えられない日は無いし、昔はあまり聞かなかった通り魔による殺傷事件が多いのには驚かされる。
平成十六年十二月には、我が家からほど遠からぬ相田川沿いの公園でも、深夜帰宅中の若い女性が暴漢に襲われ、殺害されるという事件が発生した。
他人に恨みを買うことの無いように、また人の妬みを招かぬようにと、努めて慎ましく暮らしていても、災難から逃れられない今の世の中である。
老境に入ってから、私などは夜間外出することもなくなったが、今時は多くの女性が一人で深夜歩いて帰宅しているようである。その大胆さにも驚くが、同時にその不用心さには呆れるほかはない。
かつて私は麻生本社に勤めていたが、その頃は労働基準法により女子の残業や深夜業は厳しく制限されていたし、職場の忘年会などで帰宅が遅くなるときは、上司の指示で、男性社員が女性の自宅まで送り届けていたものである。そうした配慮が、良家の子女を預かる者としての心得であることを、当時の先輩達から教えられていたものだが、今時の会社では、どんな躾がされているのだろう。労働基凖法もずいぶん変わり、男女共同参加が奨励される今日では、私達の常識は、男女差別思想として排除されることになったのかも知れない。
それは別として、こうした事件の度に納得いかないのが、犯人が精神異状者と認められたときは、無罪となることである。私は刑法についても、犯罪心理学についても、全くの素人だから分からないが、そうした定めには、それなりの考え方なり根拠があるのだろう。
あまりの無知に、皆さんから笑われるかも知れないが、敢えて素人の考えを述べさせてもらうとすれば、他人を殺傷するのは、狂気の沙汰で、異常な心理にならなければ出来るものではない。だから他人を殺傷するときは、みな一様に異常な心理状態にあるはずで、その時正常であったか、異状であったかなど、どうして区別するのだろうと、いつも疑問に思うことである。
ときどき耳にする精神病院退院直後とか、一時帰宅中とかの事件については、未然防止はできなかったのかという思いがしてならないが、方法はないのだろうか。
また、犯罪に対して刑罰を科するのも、同種の犯罪の再発防止を目的としているとすれば、心神喪失などの理由で加害者が無罪放免となるのは、如何なものだろう。
精神病院などに強制収容し、再発の虞れが完全に無くなるまで徹底的に治療することにしてもらいたいものである。でなければ、被害者やその家族が納得し難いだけでなく、一般市民も安心して暮らせない。
国民の中には、私と同様な人も多いことと思われるが、近く裁判員制度が取り入れられるということでもあり、そのあたりのことについて、あらためて啓蒙してもらいたいものである。
ramtha / 2016年5月22日