今朝の毎日新聞の「余録」にはちょっと明るい話題が載っていた。書き留めておこう。
石川啄木の歌集「一握の砂」にこんな作品がある。
とかくして家を出(い)づれば
日光のあたたかさあり 息ふかく吸う悲しく暗いイメージがついて回る啄木だが、日の光を浴びた時全身で感じた気持ちが伝わってくる。
東京の夜間中学に通う一人の女子生徒が気に入った歌がそれだった。一九八〇年代、教員の見城慶和さん(七八)が教えた生徒だ。自分に自信が持てない。中学校で不登校となり、家に引きこもった。ようやく夜間中学に来ても一言もしゃべらない。けれど少しずつ変わっていく。彼女は国語が得意だった。先生はたくさんの文学を読ませた。啄木の歌を基に「いまの気持ちを書いてみたら」と勧めた。彼女はこう詠んだ。
あたたかき光を浴びて
かがやける菜の花畑を 渡るそよ風不登校の時は春が来て桜や菜の花が咲いても楽しくない。それが、春の風を気持ちよいと感じとれるようになったのだ。見城先生は「ああ、この子はもう大丈夫なんだ」と思ったという。
彼女は山田洋次監督の映画「学校」に登場する不登校のえり子、見城先生も西田敏行さん演じる黒井先生のモデルの一人だ。不登校の子供らの学習をどう支援すべきなのか。就学機会を確保する法案を超党派の議員連盟が国会に提出する。そもそも学ぶとは、学校とは・・・。議論はそこが問われているのではないか。
あの女子生徒は高校に進み、皆勤で卒業した。見城先生に送った手紙にはこうあったという。「もう後ろを振り向かなくても、自分らしく生きていけます」。
もうすぐ新学期が始まる。春風の中、息を深く吸う。学校はそんな場所であってほしい。
私は小学校を卒業したとき、六年間の通信簿の記録を集計したら、全出席日数が五十%にも満たない有り様であった。病床にあるのが通常で、元気に登校するのが珍しいほどの病弱な子であった。運動は何をやらせてもクラスで最も下手。体操の時間も運動会も嫌いで、よろず引っ込み思案な子であった。
私の通学した私立明治小学校では、毎日昼休み前の三十分は、全校生徒が体育館に集まり「昼会」と称するミニ学芸会が催されていた。各クラスから一人づつ正面の壇上に上がり、本を朗読したり歌を歌ったり話をさせられたりするのだが、あれは一年生の時だったか、夏休みの体験談をしなければならない私は、壇上に立った途端、目の前が真暗になり、一言も喋れず、泣き出してしまった。
全校生徒の前で醜態を哂した屈辱感に深く傷ついたことは今も忘れ得ない。先生にはえらく叱られた。今時なら忽ちいじめられっ子にされるところだが、幸いにして良いクラスメートに恵まれ、誰一人として、軽蔑はもとより話題にもしないでくれた。
人間の集団の中には、必ず私のような内気や弱気の人が居るものである。そういう人も回りの人に恵まれれば普通に暮らしていけるのだから、みんな優しくつき合ってほしいと考えている。
ramtha / 2016年5月23日