今朝の毎日新聞には、客員編集委員の金子秀俊氏が、「面従腹背の壁」と題して、次のような論説を掲載している。
中国の習近平国家主席は、なぜ毛沢東に傾斜するのだろうか。自分を「核心」(最高指導者)と呼ばせようとしたり、中国中央テレビ(CTV)など国営メディアに乗り込んで、絶対忠誠を迫ったり・・・。
そのわけが少し見えてきた。共産党内部で習近平総書の再選に抵抗する風が吹き始めたのだ。それを抑え込もうと毛沢東流の個人崇拝運動に走った。節目は昨年十月の「共産党規律処分条令」改定だろう。中国の報道によると、条令には新しい規律違反の罪状として「派閥結成」や「妄議中央」が加わった。
「中央の問題を妄議してはならない」とは、習主席の辞職問題だの後継者人事だのを党員が議論してはいけないということだ。論じる人がいるから禁じたのだ。昨年失脚した周本順・河北省党委書記の罪状には「面従腹背、妄議中央」の文字があった。
さらに、毛沢東、鄧小平と並んで「習近平総書記の講和に従う」という文言が付加されたという。一期目の任期も終えていない習主席の個人名を党条令に書き込んだとしたら反発がでるだろう。習氏の言葉が全党員の規範となるのだから、「絶対忠誠を誓え」と言われたらするしかない。
これとよく似た強権統治の手法で政権維持を図った前例がある。毛沢東時代と鄧小平時代の移行期に、約五年間政権を担った華国鋒だ。
毛沢東の死後、公安部門を握っていた華国鋒は、後継の座を狙っていた江青夫人ら「四人組」を逮捕し、「おまえがやる、なら安心だ」という毛沢東メモを根拠にして後継者になった。党主席(現在は廃止)のほか、首相ポストも兼任した。
その後、鄧小平ら、文革で打倒されていた実力者が、次々に復活し対立が起きると「毛沢東の決めたことがすべてである」と言って、階級闘争路線を続けようとした。
だが、党内こぞって面従腹背、鄧小平が一九七八年の党中央委員会総会で実権を握ると、主席の地位は形骸化し、静かに政界から影を消した。習近平政権は華国鋒政権と同様に権力基盤が弱い。ライバルを強権で投獄し、毛沢東モデルの権力統治をめざしているが面従腹背という壁は厚い。この壁を突破することは容易なことではないだろう。
これを見て感じたこと、考えさせられたことを書き留めておく。
その前に予備知識として、毛沢東以来の中国共産党の主な指導者と事件に就いて広辞苑の説明を見ておくことにする。
毛沢東(モウタクトウ)
中国の政治家・思想家。湖南省出身。一九二一年中国共産党創立に参加。農民暴動を指導し、朱徳とともに紅軍を組織、一九三一年江西省瑞金で中華ソビエト共和国臨時政府主席に就任。一九三四年長征を敢行し根拠地を陜西省に移動、日中戦争には国共合作して抗日戦を指導。戦後は蒋介石を打倒して、一九四九年中華人民共和国を建設、国家主席となる。一九五九年党主席に専任したが、一九六六年文化大革命を起こして、再び全権を掌握。死後、晩年の指導の誤りを指摘される。(一八九三~一九七六)
朱徳(シュトク)
中国の軍人。四川省の人。一九二七年南昌に蜂起、のち毛沢東と共に井岡山で紅軍を組織。抗日戦では八路軍総司令。一九五五年元帥。人民共和国国家副主席・全国人民代表大会常務委員長。(一八八六~一九七六)
劉少奇(リュウショウキ)
中国の政治家。湖南省出身。モスクワに留学し、一九二一年中国共産党に入党。労働運動を中心に革命運動を指導。人民共和国成立後、国家副主席、一九五九年主席。文化大革命で批判され、党籍剥奪、一切の公職から追われた。一九八〇年名誉回復。(一八九八~一九六九)
周恩来(シュウオンライ)
中国の政治家。江蘇省生まれ。初めは日本に留学、五・四運動に際し天津で活動。のちフランスに留学、中国共産党フランス支部組織。西安事件以来、国共合作に努力。人民共和国成立と共に政務院(のち国務院)総理兼外務部長、以後死去まで総理。(一八九八~一九七六)
張作霖(チョウサクリン)
中国の軍人・政治家。奉天派軍閥の総帥。遼寧省の人。馬賊の出身。東三省を支配下に収め、一九二七年北京で大元帥。同年国民政府の北伐軍と戦って河南で大敗。一九二八年奉天(今の瀋陽)に入ろうとして関東軍の陰謀による列車爆破で死亡。なお当時の日本政府は爆殺事件の真相を秘匿するため、満州某重大事件と呼んだ。(一八七九~一九二八)
張学良(チョウガクリョウ)
中国の軍人・政治家。張作霖の長子。父の死後、東三省の実権を握り、日本の反対を退けて国民政府に合体。満州事変により東三省を追われ、西北剿匪副指令となり、抗日救国を要求して蒋介石を監禁(西安事件)。その後一九九一年まで台湾に軟禁。(一九〇一~二〇〇一)
林彪(リンピョウ)
中国の軍人。湖北省出身。紅軍の建設に努め、第二次大戦後、東北人民解放軍総司令・国務院副総理・国防部長・党副主席。文化大革命で毛主席の後継者に指名されたが、クーデターに失敗、逃亡飛行機が墜落して死亡。(一九〇七~一九七一)
鄧小平(トウショウヘイ)
中国の政治家。四川省出身。フランスに留学。一九四五年、中国共産党中央委員。党総書記・副総理など歴任。文化大革命中、批判を受け、二度にわたり失脚、四人組逮捕後復活、中国の最高実力者となり、改革・開放政策を推進。(一九〇四~一九九七)
胡耀邦(コヨウホウ)
中国の政治家。湖南省出身。党組織部長・政治局委員などを経て、一九八一年、党主席(翌年総書記と改称)となり、改革開放政策を推進。一九八七年一月辞任(一九一五~一九八九)
四人組
中国で、一九六六~一九七六年の文化大革命の時期に権力を振るった江青・王洪文・張春橋・姚文元の称。一九七六年、毛沢東の死後逮捕され、裁判で死刑・無期懲役などの判決を受ける。
江青(コウセイ)
中国の政治家。本名、李進。山東省出身。一九三〇年代上海の新劇界で活躍。一九三九年、毛沢東と結婚。文化大革命で台頭。一九七六年、毛沢東の死後逮捕され、無期懲役で服務中、自殺。(一九二四~一九九一)
江沢民(コウタクミン)
中国の政治家。江蘇省出身。電子工業相・上海市長をへて一九八九年、天安門事件直後、党総書記。一九九三年、国家主席を兼任。2004年引退(一九二六~ )
胡錦濤(コキントウ)
中国の政治家。安徽省出身。清華大学卒。貴州省・チベット自治区の中国共産党委員会書記などを経て二〇〇二年、党総書記、二〇〇三年、国家主席、二〇〇四年、党中央軍事委員会主席に就任し、党・政・軍三権のトップとなる。(一九四二~)
温家宝(オンカホウ)
中国の政治家。天津市出身。中国地質学院卒。一九八六年、中国共産党中央弁公庁主任。二〇〇三年、副総理。(一九四二~ )
五・四運助
一九一九年五月四日、北京に起こった学生デモ隊と軍警の衝突事件に端を発した中国民衆の反帝反封建運動。ヴェルサイユ講和会議において日本の山東利権を承認していた民国政府の態度を不満として起こり、全国的な大衆運動に発展した。
国共合作
中国国民党と中国共産党との協力体制。前後二回、第一回は一九二四年一月から一九二七年七月まで、第二回は日中戦争の勃発により一九三七年九月から一九四六年七月まで継続。
西安事件
一九三六年匸一月匸一日、共産党軍討伐のため西安に駐屯中の張学良麾下の旧東北軍が、南京から督戦にきた蒋介石を監禁した事件。張は内戦をやめて団結、抗日することを要求、共産党の周恩来の斡旋もあり、まもなく蒋を釈放。国共合作による抗日民族統一戦線の結成の契機となったが、以後、張は監禁された。
文化大革命
一九六六年に始まる中国の政治・思想・文化闘争。毛沢東・林彪らを主導者とし、大衆を直接組織することによって、党・行政機関の実権を劉少奇らから奪った。その極左的傾向が弊害を生み、毛沢東の死後、江青らいわゆる四人組が責任者として逮捕され、一九七七年終了が宣言された。
天安門事件
①一九七六年四月五日、天安門広場で民衆によって周恩来首相追悼をめぐって起きた争乱事件。
②一九八九年六月四日、天安門広場を中心に起きた、民主化運動の武力弾圧事件。同年四月の胡耀邦の追悼式をきっかけに広がった学生らの運動が「反革命暴乱」として鎮圧された。
これらの資料を見ると、中国共産党の歴史は毛沢東の党創立以来、絶え間ない権力闘争が繰り返されてきている。習近平は就任以来、数多くの汚職摘発をして、政敵の大半を倒し、いまや独裁者の地位を確立したのではと想っていたが、そうではなく、まだまだ陰湿な権力闘争が続いているようである。
洋の東西を問わず、政治家の世界は最高権力者の地位を狙って鎬(しのぎ)を削る争いをしているが、中国共産党内の権力闘争は格別凄まじいものがあるようだ。
習近平氏の人柄について。は顔を合わせる機会も無い私などには分かりようもないが、テレビなどで見る限りでは、表情に乏しく暗い感じである。「習近平の肖像」で紹介したように彼の信念は「力がすべて」であり、他人に心を許すことのない人間不信に徹しているように想われる。従って彼を取り巻く部下すべてが、面従腹背の徒であるものと想われる。中国共産党の張り巡らすカーテンの中では、どんなドラマが繰り広げられているか、私たちには分からぬことばかりである。
ramtha / 2016年5月24日