筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

四、生活機器など(① 暖房について)

庶民の暮らしの中で、昔と大きく変わったことと言えば、なんと言っても、家庭電気製品が身の回りを取り囲むようになったことではなかろうか。前回の「家具・生活用具」の中でも、すでに電気釜・電気掃除器・電気洗濯器などが出てきたが、今日の我々は、まだまだ多くの電気製品のお世話になっている。今回は、そうした物が無かった昔は、どうしていたのか、当時を振り返り、今日までの変遷の足跡を辿ってみることにする。

① 暖房について

北九州の冬の寒さは、北国に比べれば、さはどのことではないが、まだ地球温暖化などという言葉も無かった昭和初期は、今よりは寒かったように思う。また、今では石油ストーブ・電気ストーブやエアコンなどの他、電気カーペットなど、部屋中を暖める快適な暖房器具があるが、当時は家庭の暖房と言えば、火鉢で手を暖めるか、炭火を入れた炬燵(コタツ)で、暖をとるぐらいに過ぎなかった。

火鉢には、俗に手焙(てあぶり)と言われる、一人か二人が手を煖める小さなものや、周りを何人かで囲み、それぞれが手を翳(かざ)し、団欒(ダンラン)する、大きいものなどがあった。丸い陶器製のものが多く見られたが、四角い木製の箱火鉢もあった。

受験期、深夜まで勉強する時は、小さな火鉢を机の脇に置いて居たが、ともすれば悴(かじか)む手を暖めるに過ぎず、背中には綿入れのちゃんちゃんこを羽織り、膝上には毛布や丹前(タンゼン)などを掛けるなどして、寒さを凌いでいた。

火鉢は長時間使用するときは、時折、炭を継ぎ足さねばならない。そのため炭を小出しして置く炭籠(すみかご)があった。そういえば誰の作か忘れたが、

「学問の さびしさに耐え 炭をつぐ」

という句があったが、学生時代の冬が思い出される。

炭を継ぎ足したり、炭火を調節するには、金属製の火箸(ひばし)が使われていた。うっかり火箸の先を炭火の中に刺し忘れ、手がつけられないほどの熱さにしてしまったこともあった。二本の火箸が、輪で繋がれているものがあった。一対の火箸がいつも揃って、ちぐはぐにならないのは良いのだが、案外使いにくい代物であった。

暫く火鉢の側を離れるときは、熾炭(おこりすみ)を灰の中に埋(い)けて、埋火(うずみび)として置き、戻って来たときに、火箸で掻き出して利用していた。

子供の頃、外から帰って来るなり、冷え切った下半身を暖めるべく、居間の大きな火鉢に跨がる、いわゆる股火(またび)をしては、みっともないとその都度叱られたことである。

居間に置いてある大きな火鉢では、たいてい五徳(ゴトク)の上に載せられた薬缶(ヤカン)が湯気を上げていた。あれは、ジャーの無かった当時、何時来客があっても、直ぐお茶を淹(い)れるための備えであったに違いないが、同時に今日の加湿器の役目も果たしていたようだ。

(註)五徳(ゴトク)=炭火などの上に置き、鉄瓶などを掛ける三脚または四脚の輪形の器具。鉄または陶器製。

私が物心ついた頃は、すでに父は煙草をやめていたが、私は幼い頃から煙草の匂いが好きで、来客が火鉢の灰の中に差し込んで行った吸殻を、後で火にくべて匂いを嗅いでみたりしたことがある。しかしその頃の煙草は、朝日や敷島と言った口付き煙草が多く、吸口部分の紙の焼ける匂いがするばかりで、肝心の二コチンの匂いはあまりしなかった。

(註)口付き煙草=吸口の付いている紙巻き煙草のこと。今日広く吸われているのは両切煙草。

来客によっては、火鉢の灰の中に、白い吸殻の柱を無数に残していくヘビースモーカーも居て、座敷中に煙草の煙が立ち籠めるようなこともあった。後で家人が戸を開けて換気するなどしていたが、嫌煙権と言う言葉も無かった時代、他人に迷惑を掛けていることなど、喫煙者自身は考えて見たこともなかったに違いない。

手焙(てあぶり)と言えば、俳諧歳時記(新潮社編)に、次のような句があった。

手あぶりや 心うつつに 話きく  古川季子

小さな火鉢を中にして、二人の人物が対座している。作者は若い女性であろうか。昨日デイトした男性の別れ際の姿を思い浮かべ、彼の気持ちをあれこれ忖度(ソンタク)している。対座しているのは、そんな彼女の気持ちも知らず、縁談を持ち込んできた世話焼きの叔母でもあろうか。この句からは、そうした風景が想像されるが、二人の間に置かれた陶器の手焙りは、そうした虚ろな心象と、当時の時代屬景の表現には、欠かせない小道具となっている。

木製の箱火鉢には正方形の小さな手焙りもあったが、長方形の長火鉢もあった。我が家で見ることは無かったが、商家や料亭の帳場などで見かけたことがある。
その長火鉢の片端には、三段ほどの小さな引き出しがあった。何を入れていたのか分からないが、私か懇親会の世話役をさせられ、支払いのため帳場に行ったとき、料亭の女将(おかみ)がその引き出しから刻煙草(きざみたばこ)を取り出し、煙管(きせる)に詰めていた姿を見たことがある。あの引き出しは、そうした小物を入れるのに使われていたものだろう。

また、この長火鉢では、銅壷(ドウコ)の中の湯に徳利(とっくり)や銚釐(ちろり)を入れて酒の燗をつけていた。

(註)銅壷(ドウコ)=銅・鋳鉄などで作った湯沸かし器。竈の側壁の中に塗り込み、または長火鉢の灰の中に埋めなどして、そばにある火気を利用し、中に入れた水が沸くように仕掛けたもの。

(註)銚釐(ちろり)=酒を暖めるのに用いる銅・真鍮または錫製の容器。筒形で、下の方がややすぼみ、注口(つぎぐち)及び把手(とって)がある。

西南女学院の教員住宅に住んで居た頃は、ひと部屋だけ、俗に達磨ストーブと呼ばれる石炭ストーブがあり、冬の夜は家族全員がその周りに集まっていた。

しかし石炭ストーブは、時折、石炭を継ぎ足さねばならず、また焚き滓(かす)を処理するときに灰が舞い上がらないように、台皿に水を入れて置くなど、煩わしさがあった。煙を屋外に出す煙突は、ひと冬に一、二度は掃除をしなければならず、その度に煤だらけになったことである。

ある夜、このストーブに温まりながら、東京では大変なことが起こり、戒厳令が布かれたとか、新聞社も事件にまきこまれたので、新聞も配達されなかったなどと言う話を、父から聞かされ、何も分がらぬまま身震いするような興奮を感じたことがある。

それは昭和十一年の二・二六事件のことであったが、今にして思えば、陸軍がこの国を引き摺って、戦争へと走り出した、歴史の転換点となる夜であったのだ。

(註)達磨(だるま)ストーブ=達磨に似てずんぐりとした丸型の、投げ込み式石炭ストーブ。

(註)二・二六事件=昭和十一年二月二十六日、陸軍の青年将校らが、国家改造を目指し、部隊を率いて首相官邸などを襲撃したクーデター事件。内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清らを殺害、永田町一帯を占拠。翌日戒厳令公布。二十九日には鎮圧されたが、事件後、軍部の政治支配が甚だしくなった。

炬燵(コタツ)に纏わる幼児期の思い出が無いのは、我が家では使用していなかったのだろうか、そのあたりは定かでない。

昭和十八年三月、従兄弟が高校受験のため信州松本へ行くとき、伯母に頼まれて一緒に行くことになった。初めての信州では、雪を戴いた北アルプスの素晴らしさに感動したが、初めて体感した寒さにも驚いた。

宿では、今日の電気炬燵と同様に、炬燵櫓の上に飯台用の板を置き、その上に料理を並べて食事をした。就寝時の蒲団は、足許を炬燵蒲団の中まで入れて敷いてくれていた。当時のことだから炬燵の火源は炭団(たどん)であったと思うが、定かではない。

昭和二十二年四月二十五日、衆議院総選挙で社会党が第一党となり、片山哲氏を首班とする社会党政権が誕生した。その年、飲食営業緊急措置令が公布され、外食券食堂・旅館・喫茶店以外の飲食店は営業禁止となった。

このため飯塚本町の料亭松月も休業することとなり、その休業期間中、麻生産業が借用し、本社の独身寮として使用していたことがある。(昭和二十三年二月、社会党は、党内左右対立により片山内閣総辞職、翌年、飲食営業緊急措置令、解除となる。)

当時、私もその一室に住んでいたが、戦後の物の無い時代とは言え、一流料亭の客室に七輪を持ち込むわけにもいかず、私は、小さな電熱器を湯沸かし兼用の暖房として使っていた。

部屋はさして広くはなかったが、電熱器の火力では、湯を沸かすことは出来ても、部屋を暖めるには程遠く、たいていは蒲団の中に潜り込んでいた。

その頃、佐賀県久原の筑肥鉱業所に勤務していた親友の高井君は、出張で本社へ来る度に、私の部屋に泊まっていた。あの頃どうやって手に入れていたのか忘れてしまったが、その度に、どこからか酒を仕入れ、高井君手土産の干物を電熱器で焙(あぶ)り、それを肴に杯を酌み交わしたことである。

私の部屋に限らず、もともと料亭の座敷なのだから、どの部屋も鍵はなかった。だから私の留守の時でも、高井君は、私の部屋に入り、私の帰りを待っていた。

その日も私が勤務を終えて寮に帰ってきたら、いつものように高井君が既に来ていた。しかし部屋の様子がいつもと違う。師走の寒い日というのに、窓が開け放しになっており、なにか物の焦げた匂いもする。

「寒いだろうに、どうしたのか。」と尋ねると、何時ものように散らかした私の机の上のアルバムを指差し、「俺が来るのが、もう五分も遅かったら、君は馘(くび)になるところだぞ。」と言う。

見れば、朝出勤前、寝床の周辺に散らかっている文庫本やアルバムなどをあただに机の上に積んで出かけのだが、そのアルバムが半ば以上焼けている。
彼が薬缶(ヤカン)の水をかけて消火してくれたようで、黒焦げのアルバムはまだ水でぬれている。

彼が午後一時半頃来たとき、アルバムの上から煙が上がっていたそうだ。
どうしてこんなことになったのか、考えるまでもなく、私が電熱器のコンセントを抜いてなかったからだ。

終戦後間もないその頃は、常時電力不足で、家庭用電力は、夜間と正午前後だけしか供給されていなかった。

その日、朝の冷え込みで、電熱器を入れてみたが、もう停電タイムで、点火しなかった。いまいましさばかりが頭に来て、コンセントを抜くのを忘れてしまっていたのだ。そして昼間、高井君が私の部屋に入る前、いつものように配電時間となり、電熱器に入電発熱し、上に載せていたアラバムが燃え姶めたということのようである。

「載っていたのが分厚いアルバムで良かったぞ。新聞紙などだったら、この部屋はおろか、この家全部に火が回ってしまっていたぞ。」と散々店卸(たなおろ)しされたが、弁解のしようもなく、その日は酒を調達して彼に感謝するほかはなかった。

なお、飲食営業緊急措置令は昭和ニ十四年、解除され、独身寮は柏森の紅葉寮に移り、松月は料亭として営業を再開した。

(註)店卸(たなおろし)=他人の欠点などを一々指摘すること。

吉隈炭坑の社宅では、煮炊き用の七輪を卓袱台(ちゃぷだい)の中央の空間に置いて、暖を取っていた。

昭和二十七年、本社社宅に転居した時、茶の間の中央に穴を掘ってもらい、掘炬燵を使用した。その後、昭和四十六年上京するまで、転居する先々で炬燵のお世話になってきたが、手狭な社宅では、炬燵に足許を突っ込んで蒲団を敷くようなことは出来ず、夜具の中で手足を縮め小さくなって寝ていた。

(註)卓袱台(ちゃぶだい)=四脚の低い食事用の台。飯台。通常は四角形または丸い形のものが多かったが、炭坑では、丸い形で中央に七輪を入れる空間があるものが使われていた。
なお、炭坑では七輪をカンテキとも言っていたが、広辞苑によれば、京阪での用語と言うことである。前回書き落としていたので、付記する。

まだ電気行火(デンキアンカ)や、電気毛布などという便利な物が無かった子供の頃、寒い冬の夜は夜具の足許に、湯湯婆(ゆタンポ)を入れていた。奇妙なことだが、湯湯婆に湯を入れていると、湯を注ぐ音につられてか、尿意を催してくる。しばしば途中で家族に交代してもらったことが思い出される。

湯湯婆には陶器のものと金属製のものとがあったが、陶器のものは重たい欠点があり、金属製のものは軽いかわりに、入れた初めは熱く、布で覆わないと火傷するほどであった。だが、明け方には陶器のもの以上に、すっかり冷たくなってしまっていた。

携帯用の暖房器具として今では、使い捨て懐炉(カイロ)が広く使われているようだが、昔は点火した懐炉灰を容器に入れて持ち歩く懐炉があった。

(註)懐炉灰(カイロはい)=火をつけて懐炉に入れる燃料。初めはイヌタデ・ナスなどの炭末を用い、後、桐・麻殻・胡麻殻・藁・艾(よもぎ)などの炭末・灰に助燃剤を加え紙袋に詰めたもの。糊料で練り固めた固形のものもある。

昔の学校や勤務先での暖房はどうだったか、朧げながら記憶を辿ってみる。

前にも記したが、私は戸畑市の私立明治小学校で学んだが、明治鉱業(株)を傘下におさめる安川・松本財閥による私立の学校であったので、職員室はもとより、各教室にも石炭ストーブが置かれていた。

教壇に向かって左前方の片隅に設置されていたので、最前列左端の席の生徒は、ストリフの間近で、暑すぎることもあったようだ。ストーブの傍に金網の立て籠が置かれていて、生徒はこの中に弁当を置くようになっていたので、真冬でも暖かい弁当を食べることができた。しかし。授業中に暖められた弁当のさまざまなおかずの匂いに食欲を刺激され。昼食前など、先生の話も上の空となることもしばしばあった。

登校したとき、すでにストーブの火は燃えていたから、毎朝小使さんが焚き付けていたのだろうが、下校時は、その日の掃除当番が火を落とし、焚き滓(かす)の処理をしていた。

中学は県立だったので、職員室にはストーブがあったが、教室には無く、私達は椅子に腰掛けたまま、ひたすら腿を擦るなどして、寒さに耐えるほかはなかった。

それでも、一クラス五十名の生徒の体温で、教室内は外気に比べれば暖かかった。しかし、成長盛りの男の体臭が教室に籠もっていたに違いない。その中にいる私達は寒さばかりに気を取られ、臭気など気にならなかったが、教室に入って来られる先生方には、ずいぶん鼻についていたのだろう。漢文の藤井先生は、いつも授業開始前に窓を全開して換気をさせていた。みんなの体温で、多少なりとも温もっているのにと、恨めしく思ったことだった。

旧制高校の教室では、明治小学校のときと同様に、教室の前左端にストーブがあった。休み時間には、学生がいつも周りを取り囲んで、談笑していた。

学生寮では。一室六畳に二人入居していたが、窓際に並べた二人の机の間に、小さな火鉢を置いて共用していた。寒い夜は丹前を背中に羽織ったりして勉強していたが、食堂や娯楽室には暖房設備があったかどうか、良く覚えていない。

松本市の県(あがた)の森公園に、旧制松本高校の階段教室と学生寮の一室が復元保存されているのを見学したことがあるが、私が学んだ福岡高校のものと酷似しており、懐かしさが込み上げてきた。しかし、寒さの厳しい信州の冬はどうしていたのかは、分からなかった。

大学は僅か一年半ばかりで、徴兵猶予停止となり、いわゆる学徒出陣で押し出されたのと、講座毎に教室が変わっていたので、記憶が鮮明でない。集中暖房による蒸気配管がされていたような気もするが、昭和十七年の冬と言えば、戦局も一段と厳しさを増している時、大学の暖房など、既に止められていたのかも知れない。

昭和二十年終戦により復員、私は麻生鉱業(株)に入社した。戦後の混乱期で世間一般では燃料不足で、みな寒さに凍えながら耐えていたが、就職先が石炭会社のおかげで、私は震えずに過ごすことが出来た。炭坑の事務所では達磨ストーブがあり、本社では飯塚病院の敷地の一角にあるボイラーによる蒸気が各室に配管されていた。

本社労働部に居た頃、窓際に設置されているスチームヒーターに腰を暖めながら、上司や先輩が議論をされていた風景が思い出される。

しかし、当時東京は食糧・燃料ともに極端に不足し、大手町のビルにある東京支店では、ビルの暖房は機能せず、七輪を事務室に持ち込んで暖をとる有り様のため、出張で上京する社員は、加配米とともに豆炭まで運ばされていたようである。

(註)加配米(カハイマイ)=戦後の日本経済を緊急に回復するための措置として、石炭・鉄・肥料など基礎的物資の生産を拡大しようとする、所謂傾斜生産方式がとられたが、それを推進するために、それらの生産に従事する人々に一般の配給量以上の米が配給された。これを加配米と言った。

ramtha / 2016年5月21日