前にも記したように昭和元年、小倉西原町の借家に転居しているが、その後下到津の借家を経て、昭和三年西南女学院の教員住宅へ移るまでの間は、期間も短かかったせいか、当時の写真は私の手元に残っていない。だから西原町に住んでいたとき、どんな衣類を身につけていたか確かなことは言えない。私のおぼろ気な記憶では、近所の男の子はシャツに半ズボン姿や、着物姿のものなど様々であったようだが、女の子はほとんどが、付紐のある着物を着ていたような気がする。
二、三軒先の家に私と同じ年の男の子が居たが、裕福な家庭の子だったのだろう、彼だけはいつも紺の半ズボンにサスベンダーを着用していた。その姿が私には、えらくハイカラに感じられたことが思い出される。
私自身は、夏は半袖シャツに半ズボン、冬は上着に長ズボンで遊んでいたが、家の中では夏は浴衣(ゆかた)、春秋は単物(ひとえもの)、冬は袷(あわせ)にちゃんちゃんこを羽織るなど、和服で過ごすことも多かったように思う。
(註)付紐(つけひも)=子供の着物の胴の両側またたは後方に縫いつけてある紐。
(註)ちゃんちゃんこ=子供用の袖無し羽織。
なお、その頃どんな帽子を被っていたか、定かではないが、夏は緑のある麦藁帽子を、冬は正ちゃん帽子を与えられていた様な気がする。また、自分は被ったおぼえはないが、友達の中には、後ろにリボンの下がった水兵帽やベレー帽、顎紐(あごひも)のついた縁のある帽子などを被っている者も居たようだ。
(註)正ちゃん帽子=毛糸で編んだ、頂に毛糸の玉を付けた帽子。大正十二年、朝日新聞に連載した樺島勝一の漫画「正ちゃんの冒険」の主人公が被っていたことから言う。
(註)水兵帽(スイヘイボウ)=水兵のかぶる帽子。また、それを真似て作った少年少女用の帽子。
上半身の下着(したぎ)に、どんな物を着ていたか定かでないが、多分木綿の半袖シャツかランニングシャツを着ていたのではなかろうか。下半身は猿股(さるまた)を穿き、冬は股引(ももひき)を重ねていたようだが、真夏の室内では猿股一枚で過ごしていたような気がする。
なお今日のパンツは、腰回りにゴムが取り付けてあるが、その頃の猿股にはゴムは無く、取り付けられた紐を締める仕組みになっていた。うっかりすると紐の片端が紐通しの中に入ってしまい、取り出せず、お袋に改めて紐通を使って通し直して貰ったこともあった。
(註)猿股(さるまた)=男子が用いる腰や股を覆う短いももひき。西洋褌(セイヨウふんどし)。
(註)紐通(ひもとおし)=①紐を通すべき孔。②紐を通す道具。
女の子がどんな下着を着ていたか知らないが、その頃は成人女性でも、下着は襦袢、腰巻きの時代で、子供もまだズロースを穿く習慣は行き渡ってはいなかったようである。
昭和初期、思想犯で検挙された女性運動家が、ズロースを穿いて居たため、「西洋気触(かぶ)れしやがって」と殊更に警察官の反感を買い、虐待されたという話を、ものの本で読んだことがある。これらを思い合わせると、大正末期から昭和初期にかけての頃、わが国の女性は腰巻きから次第にズロースに穿き替えて行ったものと思われる。
しかし当時のズロースは、腰から太股の上まで覆うもので、今日の女性が着用しているパンティーとは比較にならない大きい下着であった。
ズロースを穿いて居なかった当時、幼い女の子が着物の裾を捲(まく)り、道端にしゃがんで用を足す姿はしばしば目にしたことである。また、田舎の田圃道では、小母さんたちが並んで、中腰前屈みになり、着物の裾を僅かにたくし上げて、お喋りしながら器用に用を足す光景も見られたことである。
ramtha / 2016年5月4日