私は昭和四年に私立明治小学校に入学したが、入学式の記念写真を見ると、男の子は全員、黒い学童服を着ている。しかし、それは私以外の生徒は、その大半が明治専門学校(現九州工業大学)の教官や、安川・松本財閥傘下企業の、いわば幹部社員の子弟であったためで、その当時の一般的な状況とは言えない。
女子はまだ制服が無く、まちまちの洋服を着ているが、昭和八年頃には制服が出来、昭和十年の卒業式の写真では、全員白い長袖のブラウスにジャンパースカートを着用している。
男子の冬服は黒い木綿の小倉服に、前鍔(まえつば)の付いた黒い学生帽子を被っていたが、夏は薄手の霜降小倉に衣更えし、帽子には白い日覆いを被せていた。
なお、帽子には学校毎の徽章を付けていたので、街中で見かける学童も、どこの学校の生徒か、一目で判ったものである。そんなことで、校外でも母校の名誉を損なうような行動をしないようにと、つねづね先生からやかましく注意されて居た。
(註)小倉織(こくらおり)=木綿糸を合わせて博多織のように織った織物。小倉地方の産物。この小倉織を生地とした服を小倉服と言い、多く学生服に用いられた。
(註)霜降(しもふり)=霜の降りたように、白い斑点が散らばっている模様。霜降小倉は、綿織物の一種。霜降模様の小倉綿洋服。
(註)日覆い=夏、制帽などの上部を覆う白い布。
女子の夏の制服は、半袖のセーラー服に紺のプリーツスカートであったような気がするが、定かな記憶は無い。
なお、体操の時間や運動会のときは、男子は白い木綿の半袖の上着に半ズボン、女性は自い上着と黒いブルーマーに着替え、頭には、男女とも表裏が白と赤の体操帽子を被っていた。先年近くの小学校の運動会の折、同じ帽子を今の小学生も被っているのを見かけ、こればかりは昔のままだなと思ったことであった。
低学年の時、私たちは下着に猿股を穿いていたが、六年生は当時の成人男子と同様に、越中褌(エッチュウふんどし)を締めていた。毎日、全校生徒一緒に行なわれる自彊術(ジキョウジュツ)の時、その姿を見て、自分も早く褌を締めるようになりたいと羨ましく思ったことである。
(註)越中褌(エ″チュウふんどし)=長さ約一メートルの小幅の布に紐を付けたふんどし。細川越中守忠興が始めたものと言われる。
(註)自彊術(ジキョウジュツ)=道家の導引と近代の体操を加味した健康増進法。体肢・関節を伸縮し、皮膚・筋肉を摩擦して気力と体力を養成する術。
(註)道家(ドウカ)=先秦時代、老荘}派の虚無・恬淡・無為の説を奉じた学者の総称。諸子百家の一で、儒家と共に二大学派をなす。
(註)導引(ドウイン)=道家で行なう一種の治療・養生法。関節・体肢を屈伸・動作させたり、静座・摩擦・呼吸などを行なう。長生の法という。
靴は男女ともズックの運動靴を履いて通学していたが、体操の時間や休み時間に運動場で遊ぶ時は、みんな裸足で駆け回っていた。運動場からそれぞれの教室に上がる入り口の石段の前には、水道の蛇口が備えられたコンクリートの足洗場があったが、濡れた足を拭く雑巾が置いてあったかまでは覚えていない。運動会の時も、先生方は運動靴を履いておられたが、生徒は男女を問わず、全員裸足であったと記憶している。
雨の日は傘を差し、ゴム長靴を履いて登校していた。当時はまだ蝙蝠傘(こうもりかさ)はあまり見かけず、一般に蛇の目傘か番傘が使われていたようだが、子供は安価な番傘(ばんがさ)を持たせられて居た。
(註)蛇の目傘(じゃのめかさ)=中心部と周辺とを黒・紺・赤色などに塗り、中を白くして蛇の目の形を表わした傘。黒蛇の目・渋蛇の目・奴(やっこ)蛇の目などがある。元禄時代から使用。
(註)番傘(ぱんがさ)=竹骨に紙を張り油を引いた、粗末な傘。
玄界灘からの風で北九州の雨は必ずと言っていい程横殴りに降る。だから傘を差してもあまり役に立たない。そこでたいていは風帽付きの防水マントを着て通学していたが、うつむき加減の姿勢で歩いても、激しい雨は容赦なく顔に叩きつけて来る。体はマントに覆われているから、雨に濡れることはないが、梅雨時から夏時分にかけては、ゴムびきの防水マントでは、全身汗でぐっしょりになったものである。
朝から雨の時は雨具を携行しているので良いのだが、授業中に空模様が変わり、下校時に雨が降って来ると、雨具の用意が無いので、濡れて帰らなくてはならない。
今日ではテレビでも頻繁に天気予報を流しているが、当時はテレビはおろか、ラジオもまだ広く行き渡っては居なかった。
日本史年表によれば、明治八年に東京気象台が設置されているようだから、昭和初期には、ラジオで天気予報も放送されていたことだろうが、当時の観測機器や予報技術では、その信頼性は著しく低かったに違いない。
そんなことで明治小学校では、生徒全員の置傘が備えられ、各クラス毎に生徒各人の名前が記された番傘が、教室の外側、廊下の窓の上の壁に吊り下げられていた。
廊下の天井にくっつくような高い所に吊り下げてあるので、子供には取ることが出来ない。雨の日の下校時には、先生が棹を持って来られて、一人一人に傘を取り下ろして下さっていた。
不時に備えての置傘だから、使用した翌日には、必ず学校に持参して、また定位置に戻しておかなければならない。ところが生来だらしない私は、しばしば学校へ持参することを忘れては、先生に注意されたことである。
その日も昼過ぎから雨となり、友達は先生に自分の傘を下ろしてもらっては、どんどん下校して行く。先程まで廊下でワイワイ騒いで居た生徒も、一人去り、二人帰りして、最後に先生と傘の無い私だけが残ってしまった。
さあ何と叱られるかと、小さな胸を痛めながら、しょんぼりと立っていた。傘下ろしを終わった先生は、私をちらっと見られたようだ。だが、そのまま教員室の方へ帰って行かれる。とりつくしまもない先生の後ろ姿を見送りながら、泣き出したい思いであったが、どうしようもなく、私は玄関の方へとぼとぼと歩いて行った。
職員室の前まで来たとき、先生が職員室から出て来られて、「これをさして行きなさい。」と、一本の傘を手渡された。私は途端に雨があがって、明るい日が射してきたような気持ちがした。
いま思うと、あれは先生の傘であったに違いないが、先生はあの日、どうやって雨の中を帰られたのだろう。その時、私はただ嬉しいばかりで、そんなことなど考えてもみなかった。
マイカーが広く行き渡った今日では、雨の日の通学には、親が車で子供の送り迎えをしているのを見かけることも少なくない。確かに雨の中、傘をさして歩くのは、筑豊弁で言う「シルシイ」かぎりで、楽しいことではない。
(註)シルシイ・シロシイ・シロシカ=鬱陶しい、煩わしいなどの意を表す方言
しかし人格形成の途上にある子供から、苦痛に耐える経験の機会を取り上げることは、決して良いことではないと思われるが、今の親たちはどう考えているのだろう。
小学校の頃番傘を差していた私も、中学生となった昭和十年代には蝙蝠傘を使わせてもらっていた。しかし今日のようなワンタッチでぱっと開くジャンプ傘のような便利なものではなく、必ず両手で開閉しなければならないタイプのものであった。また鞄に入れて持ち歩くことの出来る折り畳み傘が現れたのも、昭和四十年前後のことではなかったろうか。
顧みれば、蓑笠で雨中の旅をしていた昔からすれば、雨具も進化しているが、つい先頃も近くの田圃で蓑笠姿で田植えをしている農家の人を見かけ、雨の中でも両手で作業が出来る蓑笠の機能の素晴らしさに気づき、改めて先人の叡智に感服したことであった。
南国九州と言われるものの、北九州の冬は、玄界灘を越えて北風が吹いて来るので、結構寒い。ことに貧弱な体の私には、格別寒く感じられた。前にも記したように、私の通った明治小学校ではストーブが備えられていたから、授業中寒い思いをすることは無かったが、我が家から学校まで片道四キロの道は、両側に田圃の広がる往還で、風を遮るものも無く、寒く辛い通学路であった。
母の手製のセーターを着込み、さらにマントを羽織っていても、なお寒く、粉雪の散らつく日などは、つい俯き加減の姿勢で、小走りを繰り返しながら登校していたことが思い出される。
ところで、防水マントにしろ防寒のマントにしろ、袖のあるオーバーコートと異なり、手先を差し出す袖口はあるものの、袖は無いので、ランドセルを背負った上か
ら羽織ったものに違いないが、どんな風にしていたのか定かな記憶はない。
また冬は、母の編んでくれた毛糸の手袋をし、靴下を穿いていたが、栄養価の乏しい当時の食事と火鉢に頼る暖房では、毎年、手足の霜焼けに悩まされたことである。
毎晩湯上がりにメンソレータムを丹念に塗り付けたりしていたが、布団の中で少し温まってくると、足の側面の霜焼けが痒くなってくる。掻いたらさらに痒くなることは分かっていても、つい掻いてしまい、辛い思いをしたものだ。
あの居ても立っても居られない痒さ辛さは、栄養も暖房も著しく向上した今日の子供達には分からないに違いない。そう言えば、昔はほとんどの子供が青洟(はな)を垂れて居り、塵紙も持っていないことの多いその頃の子供の袖は、拭(ぬぐ)った洟汁で、がばがばになり、光を放って居た。当時の海軍士官の礼服の袖には、階級を表わす金モールが巻かれていたが、それに譬えて「青洟大将」と仇名される子が居たものだ。しかし生活水準の著しく向上した今日、そんな仇名のあったことすら忘れてしまう程、洟を垂れて居る子は全く見なくなった。
ここで、当時の先生や母親達の服装に触れておく。
明治小学校は一学年一クラスのこじんまりした私立の小学校で校長先生以下、男五人、女二人の先生方が居られたが、男の先生は、みなさん詰襟または背広を着てお
られた。女の先生は背の高い高田先生はいつもツーピースの洋服を着用されていた。
一方小柄な花田先生はまれに洋服姿の時もあったが、たいていは着物に桍をされて居た。
なお、毎学期行なわれた授業参観に来られるのは、ほとんどがお母さん方で、全員いつも和服であり、洋服姿のお母さんを見たことは無かった。
私の母もずっと和服で暮らしていたが、私のアルバムの中に、昭和十年代のものと思われる母の写真がある。
それは我が家に出入りしていた明治専門学校の学生が手持ちの写真機で撮影してくれたものだが、母はその頃、俗にアッパッパーと言われたワンピースを着ている。
たしか梅雨明けの大掃除をした日に、写したものと記憶している。母の洋服姿など記憶になかったが、これを見ると夏の間、家の中ではアッパッパーで暮らしていたのかも知れない。母が当時四十代後半であったことを考えると、昭和十年代には、成人の女性にも相当洋服が広がっていたのではないかと思われる。
(註)アッパッパー=夏に婦人が着る、だぶだぶの簡単服。関西地方で言い始めた俗語。
ramtha / 2016年5月2日