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七.食べ物のことなど(① 主食について)

先頃、コンビニの食品値引きについて、ブランチャイズ本部と加盟店との間で、意見の対立があり、公正取引委員会が問題解決に乗り出すという事件が伝えられた。

この報道があるまで、私は知らなかったが、コンビニの主力商品は弁当を中心とする食品であるとのこと。ところが新鮮さが売り物のこれらの商品は、賞味期限が切れると大量に捨てられている。いずれのコンビニでもこの廃棄商品のコスト負担に耐え切れず、賞味期限前の値引き販売で負担の軽減を希望しているが、本部は商品の値崩れを招くとして、値引き販売を認めないというのが、この問題の概要のようである。

なお、このニュースの中で、日本の食料品の廃棄量は、金額にして、食料品の輸入額に匹敵するということが伝えられていた。日頃からゴミ収集車に積み込まれる膨大な生ゴミは、気になっていたことではあるが、日本人の食生活がこれほど贅沢になっていたとは、改めて驚いた。

戦中、戦後のひもじい暮らしを経験してきた者として、食生活のことも、後世に伝えるべきことだろう。

① 主食について

小学校の時、わが国はその昔「豊葦原の瑞穂の国」と言われた稲の豊かに稔る国であると教えられたが、確かに我々は長年米を主食にしてきている。しかし稲作がわが国に伝えられたのは、約四千年前のことで、それまでは長い間、縄文時代と言われる狩猟採取の生活で、魚介類や木の実で飢えを凌いできたという。

縄文時代末期、東南アジアから対馬海流にのって稲作が九州へもたらされ、やがて東日本へも広がって行き、日本人の食生活は著しく豊かになったと言われているが、今日のような便利な農機具があるわけでなく、また亜熱帯産の稲は冷害に弱く、幾度となく飢饉に苦しんで来たことでもある。

泰平の世と言われた江戸時代(西暦一六〇三年~一八六七年)でも、享保、天明、天保のいわゆる江戸の三大飢饉をはじめ、毎年のように全国各地で凶作に見舞われている。

東北地方は山背のもたらす寒さの夏に、台風銀座の西日本は風水害に、しばしば悩まされて来た。今日では、積年の品種改良と、近代的な防災工事で、被害をずいぶん少なくしているが、自然災害に対して無力な当時は、その度に多くの餓死者が出、食物を求めて他国に逃散する時、足手まといになる幼児を遺棄するなど、悲惨極まりない地獄絵が繰り広げられたと伝えられている。

a 主食依存の昭和初期

私が物心ついた昭和初期も、東北や北海道での大飢饉で、農家の娘が身売りしたなどと言う話が伝えられているが、それにも増して、米国株式市場の大暴落に始まる世界的経済恐慌が、わが国にも押し寄せ、都市の庶民も不況のどん底に喘いでいたようである。

私は小学校に上がったばかりのことで、よく分からなかったが、近くの文房具屋のお兄ちゃんが、その春大学を卒業したものの就職出来ず、ぶらぶらしているという噂を耳にしたし、また、熊本から母の女学校の後輩という中年の婦人が訪ねて来て、北九州に何か仕事は無いだろうかと、深刻な顔色で母に相談をしていたのを目にしたこともあった。

幸いわが家では三度の食事に事欠くことはなかったが、副食は今時の食事から見れば、まことに倹(つま)しいものであった。今日では、多種多様な副食に恵まれ、世間一般からすれば、まことにささやかな我が家の食卓でも、数品のおかずが並び、主食はご飯一膳という有り樣である。

余所(よそ)の家庭のことは分からないが、日本人の米離れが嘆かれるようになって久しいことからすれば、どこの家庭も同様なことと思われる。そうした暮らしをしている今日の人々からは想像もつかない位、昔は米を食べていたものである。副食の粗末な当時は、栄養の大半を主食から摂取し、大人も子供も、毎食ご飯茶碗で三杯は食べていたように記憶している。

一日にどのくらいの米を食べていたか、正確な記憶は無いが、一人一日に一二合(約〇・五四リットル)以上消費していたのではなかろうか。

昭和十二年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争の戦線拡大につれ、次第に食糧事情か悪化し、昭和十四年、米穀配給制度が始まったときは、確か国民一人一日当たり三合と定められた。後日、さらに二合三勺に減らされ、これではとても足りないと大騒ぎしたことであった。

広辞苑によれば、「二合半」という言葉は、一食二合五勺(一日五合)の給与を与えられている者の意で、武家の下級の奉公人を意味していたと言う。

こうしたことからすると、江戸時代より副食が豊かになった昭和初期でも、普通の人で一日三合以上、重労働をする者は、もっと食べていたのではないかと思われる。

b 配給制度始まる

それでも配給制度になった当初は、全量米が配給されていたが、やがて雑穀が混入されるようになって来た。

粟(あわ)・黍(きび)・玉蜀黍(とうもろこし)はもとより、当時日本が支配していた満州国産の高粱(コーリャン)まで入れられるようになった。高梁の実は小さな紫色の粒で、高粱の入った飯は赤く染まって一見赤飯のように見えるが、小粒の高梁は固くて消化し難く、腹下しすることもしばしばあった。

前述したように、昭和十四年に米穀配給統制法が公布されているが、その年、私は旧制福岡高校に入学、寮生活を始めている。思えば、寮の食堂ではテーブルの上にお櫃(ヒツ)が置いてあり、我々はそのお櫃から茶碗に何杯も飯を給(つ)いでいたし、お櫃が空になれば、炊事の小母さんの所へ行き、補給して貰っていた。それからすると、当時の配給統制はまだそれ程厳格なものではなかったのかも知れない。

歴史年表には、昭和十六年四月に、六大都市で米穀通帳制実施と記載されているところを見ると、この時から本格的な配給制となったのだろう。

昭和十七年四月、大学に人学、東京の伯母の家に下宿させて貰うとき、米穀通帳を持参したかどうかは定かでないが、大学の食堂で昼食をする際、その都度外食券を差し出したことは覚えている。

なお、外食券を差し出しても、当時の食堂では、しばしば品切れになることがあったので、午前中の講義では、講義の終了前に、教室を抜け出し食堂へ走る学生も少なくなかった。

(註)外食券=太平洋戦争時および戦後の主食の統制下で、外食者のために発行した食券。

あれは昭和十七年の夏のことだったと思うが、京都駅の食堂のショーウインドウで、珍しく巻寿司が並べられてあるのを見つけ、早速注文した。運ばれてきた巻寿司の外側は本物の海苔、中心の人参・干瓢(カンピョウ)なども本物であったが、肝心の飯の部分は、代用のおからが詰められてあり、がっかりしたことであった。

普段、雑穀混じりの飯や薩摩芋などの代用食にしかありつけなかった当時、たまさか純米のご飯に恵まれると、銀舎利に出会ったと、誇らしげに友人に話したりしたことである。

(註)銀舎利(ギンシャリ)=「しゃり」は俗に米粒の意で、銀舎利は白米の飯を言う。一九四〇年代、わが国の食糧不足の時代の言葉。

国内の食料事情が最も悪化した戦争末期、私は軍隊に居たので、当時の銃後の食生活の苦しさは、家族から聞くばかりで体験はしていない。

(註)銃後(ジュウゴ)=直接戦闘に加わらない一般国民。

軍隊の飯も高粱などの雑穀混じりではあったが、初年兵でも丼(どんぶり)大のニュームの食器に山盛りする程の量が与えられていた。しかし飯上げや食器洗いに追い立てられる初年兵のときは、ゆっくり食事する余裕はなく、毎食、飯に汁をかけて、がさがさかき込む有り様で、満腹感の記憶はない。

(註)飯上げ=旧陸軍の内務班では、食事の度に、初年兵が炊事から主食・副食を運び各人の食器に給ぎ分けていた。この作業を「飯上げ」と言っていた。

C 戦後の食糧難あれこれ

終戦後、上三緒炭坑の独身寮では、小さな賽の目形のメリケン粉の回りにご飯粒がくっついたものや、藁を原料としたとか言う真っ黒い海藻麺と称する怪しげなものの味噌汁を食べさせられたりした。

当時、寮の中庭を畑にして、薩摩芋を作っていたが、その芋蔓(いもづる)の油炒めが、最も美味しい副食であったことが思い出される。

しかし、戦争で荒廃した日本経済の再建を図り、その基礎となる石炭・鉄鋼の増産を目的とする、いわゆる傾斜生産方式が国の緊急政策とされ、炭坑労働者には加配米が支給されることとなっていた。私もその恩恵を受け、おかげで当時としては、恵まれていた方だろうが、今から顧みると、それでもまことに粗末な食事であった。

同じ寮での先輩であった木庭暢平さんが、後年、当時の思い出を綴る文章の中で、次のように記されて居る。

今日も亦 芋ばかりなる 弁当を怪しまずなりて 秋は深まる
久々に 米の弁当 手ごたえの重くあたりて 昼休み楽し

芋は弁当箱の中で踊って音がしました。米の飯の時は流石にずしりとして口笛でも吹きたくなりました。  (麻生OB会回想文集より)

統制経済と言うものは、人間社会の欲望を、良くも悪しくも、人為的に塞き止めようとするものだが、いかに強い公権力をもってしても、完全に塞き止め得るものではない。何時の世でも、その統制の網の目を潜ろうとする者が現れることは、過去の歴史が示している。

江戸時代、幾度となく幕府が試みた奢侈品の使用禁止のような御触(おふれ)でも、必ず南蛮渡来の禁制品を密かに手に入れようとする商人が居り、またそれを故意に見逃して賄賂を取る悪代官が居たことは、時代劇で繰り返し演じられている。ましてや人聞の生存に直結する主食の統制は厳しくすればする程、その裏で闇取り引きが横行することになる。

戦時中から戦後の食糧不足の時代、闇米を求めて農家へ出かけ、衣料品などを代償として米の横流しを懇願するようなことは、当時の都会生活者の誰しもが経験したに違いない。

終戦直後、前述したように、私はまだ独身で炭坑の独身寮で生活していたので、買い出しの苦労などはしなくて済んだが、育ち盛りの子供の居る家庭では、夫婦して休日の度に買い出しに出かけていたようである。

当時の交通機関は国鉄だけと言っていい状態だから、遠くの農家で手に入れた米を、列車内を見回る経済警察の目から逃れるように、座席を移動したり、ときにはトイレに隠れたりして運んでいたようだ。

空襲による被害など、戦時中の荒廃から車両も不足していたのだろう、その頃の車内は常に混雑していたし、今日のような宅配便など無く、乗客はみな嵩張る手荷物を持っていた。だから警官の取り締まりもスピーディーには出来ず、闇米の大半は無事持ち帰られていたようである。そんなことで、闇米とは言いながら、それはもはや公然の秘密にすぎなかった。

ところが、昭和二十二年十月、裁判官山口某氏が、闇米を口にすることなく、ひたすら配給食糧のみによる生活を守り、その結果、栄養失調により死亡すると言う事件が発生した。この事件に対する受けとめ方は、人それぞれであったようだが、軍隊生活と敗戦により無意識のうちに緩んでいた私の倫理観の箍(たが)は、このニュースで厳しく締め直された思いがしたことであった。

(註)経済警察=経済統制法違反を取り締まるため、戦時中に設けた特別の警察組織。

昭和二十四年、私は結婚して旌忠公園下の社宅に入居したが、同じ社宅の先輩に見倣って、与えられた畑に薩摩芋の蔓を植えたっところが間も無く転勤で、吉隈炭坑の社宅へ転居することとなった。畑はそれぞれの社宅に付属したものだから、私の植えた芋は、次の入居者が収穫することになるが、仕方がない。だが、その頃はまだ我が家は家内と二人暮らしであったから、さしたる未練も無く、諦めていた。

ところが秋になって、私の後の入居者である飯塚病院の伊藤先生から、律儀にも、さつま芋を収穫しに来るようにとの連絡があった。早速次の休日に家内と二人して行った。その日は思わぬ収穫に喜びもしたが、重い芋を持ち帰るのに苦労したことでもあった。

d 食糧難時代の労働運動

平成二十年のリーマンブラザーズの破綻に始まる百年に一度と言われる世界的不況がわが国にも押し寄せ、労働運動の世界でも、今や賃上げより雇用の確保に重点が置かれるようになったとか伝えられている。

経済活動の現場から離れて久しくなるので、私には労働運動の現状は良く分からないが、昭和二十年代から三十年代にかけて華々しい活動を続けた日本の労働運動も、総労働対総資本の対決と言われた、昭和三十四年から三十五年にかけての三井三池炭坑の大争議を境にして、労働者の組合離れが始まり、今日では労働組合にも往年の迫力は無くなったように思われる。

終戦直後の昭和二十年十月、マッカーサーの指令により労働者の団結権が認められた。それにより雨後の筍のように多くの労働組合が出現し、戦後の生活困窮を背景に、到る所で賃上げの団体交渉が行なわれた。

石炭産業でも日本炭鉱労働組合(略称炭労)と経営者の団体である石炭鉱業連盟との間で集団交渉が行なわれたものである。昭和二十二年、私も短い期間ではあったが、炭労福岡支部の役員をさせられ、その交渉の末席に連なったことがある。

その時、組合側の専門委員は賃上げ要求額の算定基礎として、従業員家庭の生計費モデルを作成、その客観妥当性を証明する材料として、エンゲル係数やカロリー計算式を示すなどしていた。

当時とは比較にならない程生活水準の向上した今の人たちには、想像も出来ないことかと思われるが、そうした生計費資料は、当時の賃金交渉には絶対必要なものであった。

今日の賃金交渉では、どのようなことが論議されているのか私にはわからないが、平成二十年暮れに出現した派遣村などのニュースを見たり、ワーキングプアなどと言う言葉を耳にしたりすると、すっかり忘れていたエンゲル係数や動物性蛋白質などという言葉が飛び交う昔の団対交渉の光景が蘇ってきた。

(註)エンゲル係数=生計費中に占める食費の割合。一般にこの係数が高い程生活水準は低いとされる。

e 配給制度解消から米離れ

労働者の賃上げも、その原資となる企業の生産性の向上が必要で、それには戦争で荒廃した国土を復興することが終戦直後最大の急務であった。しかし戦後も肥料の不足や戦中の国土の荒廃に加えて、戦災による輸送機関の能力低下が禍して、食料不足に悩まされて来た。

その間ガリオア・エロア資金などによるアメリカの援助でその場凌ぎをしてきたが、政府の傾斜生産の強化による肥料の増産、延いては食糧確保の政策推進と、全国民の戦後復興の努力によって、食糧事情も次第に好転し、昭和二十四年四月には先ず野菜が自由販売となり、二十五年四月、魚の統制、煙草の家庭配給廃止、昭和二十六年三月、雑穀統制廃止、と続き、主食の配給制度も、なし崩し的に消滅して行った。

経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言されたのは、昭和三十一年のことであるが、われわれが食糧配給制度を意識しなくなったのは、それよりずっと以前のことで、「配給手帳なんて言うものがまだあるの」と話したのは、何時のことだったろうか。あるいは雑穀統制が廃止された頃だったのかも知れない。食管法(食糧管理法)が形骸化されても、なお存続しているとマスコミに取り上げられたのもずいぶん前のことだったような気がする。

農業技術の著しい向上と日本人の米離れとが相俟って米余り現象が生じ、いわゆる減反政策がとられるようになったのは、昭和四十四年頃ではなかったか。今日では私の家の周りでも、雑草の生い茂るままに放置された田畑が少なくない。

わが国の農業については、生産コストが高すぎるとかか、後継者が居ない、農地集約化が難しいとか、ややこしい問題が多々あるようだが、食糧自給率が先進国中最低とか言われ、多くの若者が就職難で苦しむなどと聞かされると、なんとかならないものかと思われる。

ramtha / 2016年4月23日