長年、麻生太賀吉社長の車を運転していた長野さんという人がおられたが、その長野さんの話では、昭和初期、飯塚での自家用車は、麻生社長の車と日鉄二瀬の所長の車の二台しか無かったという。北九州はそれほどではなかったかも知れないが、乗用車を見ることはやはり少なかった。
その頃、今日のマイカーの役割を担っていたのは自転車ということになる。しかし、その自転車も商店などの営業用に使われることが多かったのではないかと思う。
わが家では自転車は買ってもらえなかったが、同級生の中には自転車を持っている者も居たことを考えると、裕福な家庭には今日の自家用車のように行き渡り、次第に大衆化にさしかかる時代であったのだろう。昭和十年代の小倉中学では、曽根や苅田など遠距離からの生徒には、自転車通学をしている者も何人か居た。
なお、自転車の後ろに荷を積んだリヤカーを連結して走る光景を見るようになったのも、その頃ではないかと思うが、定かではない。
もう一つ乗用車の役割をしていたものに人力車がある。富裕層やお偉いさんは、自家用の人力車を持ち、専任の車夫を召し抱えていたようである。ことに、その頃の開業医は往診することが多く、その度に自家用の人力車を利用していた。医師が人力車に腰掛け、膝の上に聴診器など医療器具の入った黒い鞄を載せている姿を見かけたことが思い出される。尤も、病弱な私の掛かり付けであった松見小児科は、当時では珍しい乗用車を持ち、先生は看護婦さん帯同で往診されていた。
国鉄小倉駅の駅前広場には、今日のタクシーのように客待ちの人力車がずらりと並んでいた。岩下俊作の小説「無法松の一生」の主人公富島松五郎も、その中に居たわけである。そう言えば、「無法松の一生」は、昭和三十三年ベニス映画祭で大賞を受賞したことであった。
なお、今日のタクシーのように、会社に従属してその車を引くものと個人営業のものとがあった。
私の記憶の中に、警察官が前部に風除けのあるサイドカーが付いたオートバイに乗り、到津の電車道を猛スピードで走り抜けて行く光景が残っているが、私がサイドカーを見たのは、前にも後にも無く、この時だけであった。外国映画の中では何度か見たような気がするが、今では使われなくなったのだろうか。
ramtha / 2016年4月17日