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八.道路・乗り物・旅行など(⑦ アメリカ赤ゲット)

⑦ アメリカ赤ゲット

昭和三十七年、社命で生産性本部主催の米国視察チームに参加することになった。未知のアメリカへ行かせてもらうことは飛び上がるほど嬉しかったが、約四十日間毎日のように飛行機に乗らなければならない。考えただけで耳が痛くなる。しかし、こんな機会は二度と無い。思い切って参加することにした。

この視察チームのメンバーは、三井物産、日産自動車、東京ガスなど、私以外は一流企業の方ばかりであった。そんな豪華なメンバーの中で、私は小さくなっていたが、行動を共にするうちに次第に打ち解け、快適な旅を楽しむことが出来た。

顧みれば、半ば見学、半ば観光の旅であったが、その間、見るもの全て珍しく、また、初めて見るアメリカのスケールの大きさに驚くばかりであった。もう半世紀近くも経て、大半は忘れてしまったが、今も記憶に残ることの幾つかを記して置くことにする。

(註)赤ゲット=(ゲットはブランケットの略)①都会見物の田舎者。おのぼりさん。②不慣れな旅行者。

昭和三十七年八月一日朝、ホノルルヘ向かって羽田空港を飛び立った。運良く窓際の席に座れたが、エコノミークラスの座席は翼の上で、下界はほとんど見えない。

しかし、雲海の上を飛んでいるからファーストクラスでも何も見えないに違いない。それよりも初めての海外旅行の興奮で、耳の痛さも忘れていたことに気づいて嬉しくなった。

飛行機は東へ向かって飛んでいるので、忽ち日が傾き外は夜の闇に包まれる。日付変更線を超えたとき、機内アナウンスで、日付が七月三十一日に逆戻りしたことを知らされ、異様な感じがした。同時に日本時間のままの腕時計をハワイ時間に時差修正をする。

ホノルルが近づくにつれ、英語の不得手な私は不安が募って来る。日航の機内は日本人乗務員による案内だから良いが、ホノルル空港の税関を通過する時は、アメリカ人係員の検査を受け、その質問に英語で応答しなければならない。さあ、どうしよう。不安のうちに飛行機は着陸した。

飛行機から下り、空港の出入り口へ向かう通路を歩いていると、「出口」「便所」など漢字の表示板を見つけ、羽田と変わりないではないかと一安心した。税関の係員も、日本人二世と思われる女性が流暢な日本語で応対してくれ、緊張は吹っ飛んだ。

ホノルルではワイキキビーチのモアナホテルに宿泊。翌日は一同オアフ島内を観光した。住民は半数以上が日系人とかで、行き逢う人もたいていは日本語が通じた。

夜の便でシアトルヘ飛ぶ。
シアトルでは折から開催中の万国博覧会を見学した。朝早く、入り口の前には開門を待つ人々が列をなしていた。にも拘らず先方の計らいで、私たちは彼らの前を通って優先的に入場させてもらった。不正入場しているようで気が引けるが、彼らは苦情も言わず笑顔で私たちを眺めている。そのおおらかさには感心させられた。

会場ではいろいろ珍しい物を見せてもらったが、展示されている中に、それぞれ数匹の猿が入れられた二つの檻がある。見ると右の檻では数匹の子猿が一つのボールで仲良く遊んでいる。左の檻にも数匹の子猿とボールが見られるが、こちらではボールは片隅に放置され、子猿同士が奇声を上げて争い、天井の金網に掴まっている強そうな猿が、下にうずくまる猿を威嚇している。右の檻には「両親のもとで暮らす猿」、左の檻には「親の居ない猿」と説明札が下げられてあり、二つの檻の上には
「HOW DO YOU THINK?」
と書かれていた。

当時アメリカでは、年々増加する離婚による家庭崩壊が社会問題となっており、この展示は離婚防止を呼びかけているとのことであった。

私はこの展示に、アメリカ人の、説教ではなく例示による実証主義と、価値判断を個人に任せる自由主義を目の当りにする思いをしたことであった。

八月五日、サンフランシスコのホテルで日曜日の朝を迎える。今日は終日自由行動となっている。㈱ライオン歯磨の足立さんに誘われて、サンフランシスコで一番大きいプロテスタント教会を訪れる。教会の入り口には、新しい信者を歓迎するのであろうか、若い女性が待ち受けている。私たちを見ると近づいて来て握手し、礼拝堂へ案内してくれた。

間も無くパイプオルガンによる賛美歌の演奏とともに三人の牧師と女性二十一人・男性五人の聖歌隊が壇上に登場する。牧師は黒のガウン、聖歌隊は赤のガウンをまとっている。礼拝堂には八五〇人ばかり座れる椅子が用意されているが、礼拝者は三五〇人くらい。若い人は少なく老人が多いようである。それでも海軍の水兵が二人のほか二人連れの若い男女も見られた。

賛美歌演奏、聖書朗読、説教、聖餐、賛美歌合唱・・と進行して行くところは日本の教会と変わらない。同様に賛美歌合唱の間に献金袋が廻されていたが、見受ける
ところ1ドル紙幣で献金している人が多かったようだ。

祭壇上にはキャンドルが大小取り混ぜて十数本飾られ、なかなか綺麗なものであった。この時、聞いたところでは、最近では日曜日のお祈りもテレビ教会の礼拝で済ませ、教会まで足を運ばない若者も少なくないとか。

教会からの帰り、小さな公園のそばを通った。公園では宣教師が三人、野外伝導をしている。その中の一人、黒人の牧師が素晴らしい声で讃美歌を歌っている。数人の老人が公園のベンチに腰掛け耳を傾けている。ところが、すぐそばの芝生の上で若いカップルが、あられもなく戯れている。シアトルで見た秩序正しい大衆の姿もアメリカであり、この公園の光景もまたアメリカなのだ。

八月八日、ロスアンゼルスヘの移動の途中で、道路脇に夥しい赤錆びた自動車が山積みされているのに驚いた。今では日本各地で見られる光景であるが、当時ではマイカーなど、まだまだ夢のまた夢という時代であったから、そのショックは大きかった、アメリカの豊かさを羨むべきか、天物を暴殄する人間の奢りと解すべきか、迷わされたことである。

(註)暴殄(ボウテン)=(殄は滅ぼす意)天の物を損ない絶やす意。転じて、物品を浪費すること。

八月九日、グッドイヤータイヤ(株)のロサンゼルスエ場を見学する。初めに会議室で若い社員から工場の概況説明がある、振り向くとわれわれの後ろの席に、年配の役員と思(おぽ)しき人物が座っている。彼は終始無言でいたが、後で通訳に聞いたところでは、彼は説明者の上司で、社員の能力評価をしているのだそうだ。そう言えば、若手社員の説明には、詳細な内容のレジメが用意されているなど、格別熱が入っていたのも納得出来た。サラリーマンにとって勤務評定が関心事であることは、どこの国でも変わりは無いようだ。

この日、同社の工場長からプロ野球の招待券をプレゼントされた。地元ドジャース対フィリーズのナイターである。渡された入場券を見ると、内野席・五ドルハ十セントとある。当時の為替相場は一ドル=三六十円だから、約二千円だ。この旅行で日本政府から割り当てられた外貨は一日あたり三〇ドル(一万八百円)であったから、まことに有り難いプレゼントであった。

日本のプロ野球選手のユニフォームの背中には、ローマ宇で選手の登録名が書かれているほかに、背番号が記されている。私はかねて背番号はなんのためにあるのか疑問であった。高校野球での背番号は1は投手、2は捕手と言うようにポジションを表わしていて、それなりの意味があるようだが、プロの場合は守備位置とは無関係、単なるアクセサリーではないかと思っていた。ところが、この日初めてその疑問が氷解した。

ドジャース球場はロサンゼルスの郊外にあり、球場の面積の三倍もあろうかという駐車場が周りを取り巻いている光景に先ず驚いた。次に入り口を入ると、初めての来場者と見たのか、若い女のガイドが当日対戦する両チームのメンバーを紹介する顔写真・背番号入りのパンフレットを渡してくれる。次に入場券のナンバーを見て、それぞれの指定席へ案内してくれる。

バックネット裏の席だから、グラウンドで肩慣らしをしている選手の顔も見えるが、少し遠くても背番号は良く見える。しかし、いずれもはじめて見る顔でどれが誰かは分からない。そこでパンフレットの背番号と見比べて推測する。そこまでは日本の球場でも同様なことと思われる。ところでメンバーのラインナップが表示されるスコアボードに、日本では選手の登録名が漢字またはカタカナで記されている。ところがここでは名前の欄には背番号が表示されているだけである。考えてみると日本選手の苗字は、「杉内」とか「城島」とか概ね二字か三字で済むが、「ロビンソン」とか「マグワイヤー」などと言う名前を、限られた氏名欄にアルファペットで表示することは、不可能である。またアメリカ人の名前は種類が少なく、同一チームに同姓や同名の選手が存在することも少なくない。アメリカのスポーツには、背番号が絶対必要なものであると納得できたことであった。

八月十一日、貸し切りバスでディズニーランドヘ行く。まだ日本には上陸していなかったので、ずいぶん珍しい遊び施設があるのには感心したが、余り興味が無かった。

八月十二日、飛行機で砂漠の上を飛びラスベガスへ。飛行機が着陸した途端、凄い熱気が身を包んだのに先ず驚いた。平屋建てのスターダストホテルへ入る。室内は冷房で凌ぎ良いのだが、外は物凄い暑さだ。部屋で手荷物をかたづけていると、窓越しに水着姿の美人が通っているのが見える。早速カメラに収めるべく、慌てて室外に出た途端、自動ロックのドアが閉まり、室内に鍵を置いたままの私は猛暑の中に置き去りになった。折良く通りかかったメイドを掴まえ、フロントに案内して貰い、合い鍵を借りて、事無きを得たが、危うく末代までの恥を曝すところであった。そんな苦労をして撮った写真は、まだフィルムを入れてなかったようで、絶世の美人の姿はついに見られなかった。

賭博公認の街ラスベガスは、砂漠の真中にコロラド川の水を引いて作り上げた街だそうだ。だからイカサマ賭博をしてずらかるにも、交通機関に頼らなければ逃げ出せない。厳しい監視を避け歩いて逃げようにも、五〇℃を超える炎熱の砂漠では、とても逃げ切れないとのこと。

ホテルのフロントはスロット・マシーンやルーレットをはじめ、各種の賭博が二十四時間行なわれている。どのテーブルも多くの人がたかり、熱気に包まれている。

折角来たのだからと、私もルーレットの賭けに加わってみた。何回か勝ったり負けたりしたが、手持ちの五ドルが無くなったところで部屋に引き上げた。私のようなみみっちい賭け方では勝ち目は無いと、聞かされたが、小心者が分不相応な大金を賭ければ、それこそ命取りになるのがオチだろう。

八月十三日、早朝ラスベガスを出発、バスでフーバーダムヘ向かう。行けども行けども砂漠の中。ところどころに、廃屋がある。ゴールドラッシュ時代の遺物とか。

やがて後部座席の団体客が「わらーわらー」と叫び始める。何事ならんと外を見ると、漫々と水を湛えるフーバーダムが現れている。WATERを「ワラー」と発音することを初めて知った。

ダムの展望台で小休止の後、また砂漠の中をひた走る。雑草と灌木がまばらに生える荒涼とした風景が果てしなく続く。その広大さにはただ驚くのみ。午後四時過ぎ、グランドキャニオン到着。コロラド川が気も遠くなるような時間、大地を浸食して出来た深さ一六〇〇メートルに及ぶ大峡谷の光景に圧倒される。

峡谷見学の後、地元のインディアンの踊りを見る。彼らの体格といい風貌といい、日本人に酷似しているのに驚く。食堂で働く女性の中には髪が黒く、日本の街中で見かける顔つきの少女が少なくない。つい日本語で話かけたくなる雰囲気である。かつては誰に遠慮することもなく暮らしていたに違いない彼らが。今は白人の支配するところとなり、白人の言語・風習に身を寄せて生きる姿には、やはり胸の痛みを感じる。

八月十四日、早朝、国鉄の早田氏に誘われて、近くの森に野生の鹿を見にでかけた。運良く二匹の鹿に出会えた。番(つがい)であろうか、寄り添うようにして木の葉を食べていたようだが、われわれに気づくと、茂みの中に隠れてしまった。

ホテルのバスで空港に行く。空港とは名ばかり、土もあらわな平地に、連結式大型バスを事務所兼家屋としたものが一台置かれているに過ぎない。勤務員は男性一人のようで、彼が一切を取り仕切っている。乗客の荷物を台車に載せる作業など、乗客も手伝っている。

やがて砂煙を巻き上げて小型飛行機が到着、我々が乗り込むと、係員とその家族が手を振って別れを告げている。一日に何便の飛行機が離発着するのだろう。事務所の裏には紐に吊るされた洗濯物が翻っていた。

フェニックスでシカゴ行きに乗り換える。機内でニューイングランドで中学教師をしているという女性と隣席する。アメリカに来て二週間、多少は度胸もついて怪しげな英語で話しかける。日本には大学が二百あると話したら驚いていた。手持ちの扇子をプレゼントしたら、彼女は早速開いて「VERY BUETIFUL」と言う。すかさず「AS YOU」と返したら、両手を広げて大袈裟に喜んでくれた。

八月十五日、シカゴでガス会社を見学し、そこで昼食の接待を受けた。こうした会食では、主催者と来客は日本でのような対面式ではなく、それぞれのメンバーが隣り合わせに席を占め、会話を交わしながら飲食をする。

英語の苦手な私は辞退したいところだが、そうもいかない。やむなく席に着くが、こんな席で話しかける話題も無いし勇気もない。すると隣席の当社の役員が話しかけて来る。こちらの語学力に合わせてゆっくり喋ってくれるので、おぽろげながらも何を話しているかくらいは分かる。

私も覚束ない英語で応答する。彼は戦後日本に滞在したことがあるようで、野球拳など知っている。多分占領軍の一員として来日し、しばしば日本企業の接待を受け、芸者を上げて遊興したのではと思われた。

外交辞令であろうが、日本人の几帳面さ、ことに交通機関の時間の正確さなど、やたらと褒める。そのうち、日本人は小さな船で太平洋を横断し、素晴らしく勇敢であると話しているが、えらく感動的な表情である。彼がなぜ感動しているのか、私の語学力では今ひとつ理解出来ず、彼の向こう隣に座る仲間に応援を求めたが、これも良くは分からなかったようだった。帰りの車の中で
「あれは咸臨丸の話かな。」「しかし一人でと話していたぞ。」「それじゃ違う話だな。」「なんだろう。」
と一様に首を傾げながらホテルヘ帰った。

ホテルのロビーで新聞を広げていた仲間が
「これだ。これだ。」
と大声を上げて、その記事を私に見せた。そこに報道されていたのは、三日前、単身ヨットで太平洋横断に成功した堀江謙一青年のことであった。この時、あらためて我々が学校で習得した英語は、新聞を読むことは出来ても、会話には無力であることを思い知らされた。

(註)咸臨丸(カンリンまる)=安政四年(一八五七年)江戸幕府がオランダに建造させた軍艦。万延元年(一八六〇年)遣米施設新見正興の随行艦として日本人操艦による最初の太平洋横断に成功。

八月十六日、貸し切りバスでペオリアのキャタピラーエ場を見学する。ペオリアはイリノイ州の中心部にある。
シカゴからバスで三時間ばかり、延々と続く大豆畑の中を走る。日本の豆腐の原料はここの大豆だとか。途中農業用の飛行機が三十機ばかり置いてあるのを見る。農薬散布業者のものという。長年ここの大豆製の豆腐を食べて来た筈だが、農薬被害は無いのだろうか、今頃になって気になるところだが、当時はただアメリカ農業のスケールの大きさに感心するばかりであった。

ペオリアはキャタピラーエ場の城下町で、工場幹部の話の中でも地域社会にいかに多大な貢献をしているかと言うことが誇らしげに語られていた。メンバーの小松の工場長和田氏によれば、ここの工場は近代化が遅れており、参考にするところはあまり無いとのことであった。

八月十七日、松平氏の案内で三井物産支店のあるピルを訪れる。ここで久しぶりに日本の新聞を見せてもらう。

四十三階あるビルの頂上からシカゴの全景とミシガン湖を眺める。台湾がすっぽり入ると言うミシガン湖は、まるで海のようで対岸は見えない。

グラント公園を通り抜け水族館へ行く。道行く庶民の服装は日本と比べて豊かであるとは見えない。生活は決して楽ではないようだ。公園のトイレを利用したが。日本の公衆トイレと同様に落書きがある。公衆トイレの落書きはインターナショナルと言うことなのだろう。

シカゴ水族館は世界一の規模とか、沢山な人が来ている。アメリカでも、これはどの人が集まっているのは珍しいとか。

八月十九日、デトロイトで自由時間が出来たので、早田氏と二人、路線バスで市内を見て回ることにする。

自動車の町デトロイトは、折しも不況の最中、シャッターを下ろした商店や廃虚となった町工場が見られた。

地図を見ながら、乗っているバスのコースを確認していたが、途中で我々の予想しない方向へ進むので、不安になり次のバス停で降りた。ところが私たちが降り立ったところは、ブラックタウンのど真中のようである。見ると、近くの広場に遊んでいるのは黒人ばかりである。

奇声をあげて鶏を追い回す少年、片隅の立ち木の下で放尿している子供、地面に腰を下ろし私たちを胡散臭そうに眺めている大人達、いずれも目ばかりが底光りしている。人種差別はしてはならないと心得ていても、この時ばかりは鳥肌の立つような生理的恐怖を感じた。

日清戦争で勝利し台頭著しい日本人に対して黄禍論が起きたと伝えられているが、その時の白人も同様な感懐を抱いたのだろうか。ふとそんな思いが頭をよぎった。

アメリカでは白人より黒人の方が出生率が高く、黒人の人口増加に圧されるように白人は郊外へと移住して行き、下町の多くは次々とブラックタウン化しつつあると聞かされた。私が目にしたデトロイトの黒人街は、広場の片隅には異臭を放つ塵芥が積まれ、風に吹かれた空缶や紙屑が路上を走る有り様であった。

あれから約半世紀、昨年(平成二十一年)アメリカでは、初めて黒人のオバマ大統領が出現した。その時、私はアメリカ人の人種平等意識にあらためて衝撃を受けたが、それとともに、あのデトロイトのブラックタウンは今どんな街になっているか、この目で見たい気がした。

八月二十日、朝ホテルのエレベーター前に立っていると、見知らぬ客が二人来て私の横に立つ。日本人客ではないかと思われるが、なんと挨拶すべきか一瞬迷う。思い切って「お早ようございます」と声をかけたら、緊張気味の顔を途端に綻ばせ、「やあ、貴方もやはり日本からですか。」と応える。お互い安心して日本語での会話がはずむ。日本国内では、顔つきを見れば、日本人・中国人・韓国人の区別が概ね出来るものだが、アメリカでは東洋人の区別が難しい。どうしてだろう。私だけのことかと思ったが、他の人も同様の感想をもらしていた。

今日は、クライスラーの見学となっていたが、工場は六十三年型に切り替え中で見せられないとのこと。代わりにスライドをふんだんに使用しての講義となる。講師も要領良くキャタピラーなどよりずいぶん話し上手で飽きさせない。しかし、日産の浦河氏によれば、あまり参考になることは無いとのことであった。

八月二十三日 今日はMASSEY FERGUSONというカナダ系の農機具会社に行く。ここでは賃金課長と労働課長が、自社の人事管理について説明をする。

賃金決定について日本と違うのは、社内における各職種間のバランスはあまり考慮しないが、同一職種の地域内バランスを考慮するということである。日本の労働組合が企業内組合であるのに対して、アメリカの組合は職能別組合であることによるのだろう。日本の労働契約で定められる職務内容は、さして厳密なものではなく。人手の足りないときなど、職務外の仕事を手伝うようなことはよくあることで、誰も異議を唱えたりしない。しかし職能別意識に徹しているアメリカではそうはいかないらしい。

こうした職能別意識は中世欧州の同業者組合であるギルドに発する伝統であろうか。どうもこのあたりに、労使関係についての意識の違いがあると思われる。

今一つ面白いと思ったのは、日本では有給休暇をとるにしても、一度にせいぜい三~五日くらいであるのに対してアメリカではまとめて二~三週間とるのが一般的だということである。アメリカでは長い休暇をとらないと、不正をしているのではないかと怪しまれると聞き、所変われば考えも変わるものだと思ったことである。

八月二十四日、デトロイトから空路パッファローヘ。バスでナイアガラに向かう。途中カナダ領に入るときパスポートの検査がある。滝を前にして昼食をする。カナダの貨幣は少し違うようだが、アメリカの通貨でも通用する。観光船で滝の中程にあるコート島に渡る。滝の轟音と飛沫に圧倒される。低温のせいか背丈の低い色鮮やかなカンナの花が印象的であった。
夕方の飛行機でニューヨークへ飛ぶ。

八月二十五日、早田さんの知人で交通公社の方の案内で足立さんと三人市内観光をする。先ずロックフェラーセンターのRCAピル六十九階の屋上に上がる。エレベーターは物凄く速く上下する。六十九階ともなると気圧の変化で耳が圧迫される。まだ日本では高層ビルが珍しい頃であったから、展望台から見回すと、高層ビルの林立する光景に圧倒された。狹い日本なら兎も角、広大な土地を有するアメリカで、どうして上へ上へと伸びて行かなければならないのかと不思議である。しかし天高く上ろうとするのは、バペルの塔の昔から変わらぬ人間の欲望なのかも知れない。この街の人々は横へ歩く時間の数倍も上下移動をして暮らしていると、聞かされた。
次に遊覧船でマンハッタンの島巡りをする。川の上から自由の女神を仰ぎ、ヤンキースタジアムを眺める。

また陸に上がり国連本部に案内してもらう。安保理事会の会議場で議席に座り、国連大使にでもなった気分を味わうことにも恵まれた。

八月二十七日、ニューヨーク・セントラル・システムを見学。当時アメリカではすでに斜陽産業となっていた鉄道会社の経営について話を聞く。当時の日本では、新幹線建設など隆盛な国鉄のイメージしか私には無かったが、国鉄の早田氏はすでに危機感を抱いていたようで、熱心に質問していた。彼の危惧していたのは、高速道路網の発達とトラックの大型化による貨物輸送の将来と、国鉄経営陣の官僚的体質、合理化を阻む闘争的国鉄労組であった。門外漢の私など、早田氏の杞憂ではと思っていたが、その後の経過は、彼が憂慮していた通りとなった。今にして彼の先見の明に感心するとともに、それが活かされなかったことが惜しまれてならない。

八月三十日、ローンスターセメントを訪問する。
メンバーの中で、セメント会社の者は私一人だから、今日は代表して質問させてもらう。日本のセメント会社の者が来ていると聞いて、副社長が握手を求めて来た。

同社の人事管理についていろいろと教えてもらったが、その中で今に記憶していることを一、二記す。

我が社に限らず日本の企業では従業員の採用選考は人事担当部署で行ない、採用後それぞれの部署に配置している。ところが同社では、採用部署の責任者が応募者の面接選考をして採用しているようである。人事部門は、募集広告をしたり、応募者の履歴書などの書類を整理するなどの事務処理をして、それぞれの部署の採用業務を援助しているらしい。これも職能別労働契約の考えによるものだろう。

また、日本では終身雇用を基本とし、永年勤続が重視されるが、欧米では、労働者は、良い労働条件を求めて次々に転職し、企業も、他社の優秀な人物を引き抜くことが行なわれると聞かされてきた。その点について質問してみたら、意外な事実を知らされた。同社では長年の経験を有する従業員を確保するために、永年勤続を奨励し、日本と同様な表彰をしていると言う。さらにいろいろ尋ねて行くと、自分の能力を売り物に企業を渡り歩く者は確かに存在するが、それは一部の者で、大半は一つの会社に長年勤め続けているというのが、現実のようであった。

午後八時、早田氏に誘われ東京ガスの田中氏と三人でジャーマンタウンへ行く。ドイツ人経営のプラウハウスと言う店に入る。正面ではピアノ・バイオリン・打楽器による演奏をしている。われわれが日本人であると分かると一番前の席に案内してくれる。席に着くとビールをジョッキで持ってくる。摘みに一皿一ドル七五セントのチーズとハムの盛合せを三人前注文する。するとウェイターがニドルニ五セントのものにしろと言う。一皿で三人分あるからと言う。なかなか親切だ。

店のウェイターは代わる代わる歌うが、全員素晴らしい声量である。我々のために、かつての愛国行進曲を演奏し歌えと言う。一番若い田中氏が勢い良く立ち上がり
♪ 見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば・・・♪
と歌い始めた。早田氏も立ち、私の袖を引いて誘う。ついに私も酒の勢いにつられて立ち、胴間声を張り上げた。

もう二十年近くも歌ったことがなか、たが、一番だけは歌い通した。歌い終わると客席みんなから拍手され、いたく感激した。思えばあの時ほど祖国日本を強く意識したことはなかった。

愛国行進曲演奏の返礼と、先の世界大戦の同盟国ドイツ人に対する礼儀として、ドイツ国歌「ドイチュランドユーバー アレス」を演奏するようにと申し出たが、ここアメリカでは、まだ演奏出来ないとのことであった。

その代わりに、早田氏の提案で我々も知。ている「リンデンバウム」を演奏してもらった。アメリカで最も楽しい夜であった。

八月三十一日、ニューヨークの日本人クラブで、三井物産・三菱商事など日本商社のニューヨーク支店合同による歓迎会が催された。その席で長年アメリカに滞在されている三井物産のニューヨーク支店長の高橋氏(高橋是清翁の末子とか)が次のような話をされた。

「さきの戦争を始めるとき、日本の軍部では、アメリカは多民族国家だから、開戦当初に打撃を与えればきっと内部から崩壊するに違いないと考えていたようだが、現実には真珠湾攻撃を受けた途端、アメリカ国民は日本への敵意を核に団結し、結果は単一民族の日本の方が負けてしまった。
アメリカでは、多民族国家であればこそ、小学校教育の一番初めに『団結』と言うことを徹底的に叩き込んでいる。日本の指導者はそんなこととも知らずに、アメリカを単なる烏合の衆と考えていたようだが、認識不足も甚だしい。

アメリカの初等教育では、知育より徳育を重視し、小学校の一~三年では、毎朝星条旗へ敬礼することで『団結』を、四~六年では、隣人を愛する心『博愛』を繰り返し教え、中学に入ると、困難を乗り越える『パイオニア・スピリット』を叩き込むことに力を注いでいる。

戦後の日本では、もっぱら知育に重点が置かれているようだが、『鉄は熱いうちに鍛えなければならない』と言う諺の通り、人間教育においては、知育も徳育も幼い時ほど効果がある。その最も大切な幼児期の教育に置いて、日本では知育に重点を置いているが、アメリカでは、知育を犠牲にしても、幼児期の徳育に重点を置くことが大切だと考えているのだ。」

また、他の方からは。
「アメリカの企業で人を採用するとき、応募者の知性と徳性を比べその短い方を高さとし、健康を底辺とした矩形を描き、その面積の広い人から採用する。智慧がいくらあっても、人柄が良くなければ、余分な智慧は悪用される。また人柄がいくら良くても智慧が足りなければ他人に騙される。」という話も伺った。

近年伝えられるアメリカ社会の格差の増大や金融資本の横暴など耳にすると、アメリカ人の思潮はいつから変わって来たのだろうと思われる。言われるようなベトナム戦争やイラク戦争がアメリカ大衆の心に荒廃をもたらしたのだろうか、考えさせられるこの頃である。

視察旅行の最後はワシントンでホワイトハウスを見学してチームは解散し、私はサンフランシスコに戻り帰国することになった。

帰国の予定が決まったら、麻生の東京支店に連絡するように言われていたので、国際電報を打たねばならないが、どうすれば良いか分からない。こんな時は日本語で通じる日航の事務所に聞けば良いと、かねて教えられていたので、日航のサンフランシスコ支店を訪れた。

支店のドアを開けて中に入ると、一番手前のカウンタ-にはアメリカ人の美人女性が座っている。その後ろの座席には日本人女性が居るが、先客のアメリカ人の相手をしている。手前の女性は手持ち無沙汰のようにしているが、英語の不得手な私は、後ろの事務員の手が空くまで待つことにして、待合いの椅子に腰掛けた。すると手前のアメリカ人女性が、笑顔を私へ向け、流暢な日本語で「何か御用でございますか。」と声をかけて来た。

彼女に聞くには英語でなければとばかり思い込んでいた私は、一瞬意表を突かれた感じであったが、安堵して用件を述べ手続きを教えてもらった。彼女は懇切に教えてくれた。おかげで大変助かったが、帰り際にドアまで送って来て、「お気をつけてドウソ。」と言われたのには、心底シャッポを脱ぐ思いをさせられた。

後で聞いたところでは、彼女は日本で生まれ育ち、日本語が堪能なので、私のような日本人客の応対に備えて一番手前の席に配置されているとのこと。なお後ろの日本人事務員はアメリカ生まれの二世で、日本語は不得手なので後ろの席に居るのだとか。

この時の旅行で、英語力の不足を嫌と言うほど痛感させられたにも拘らず、怠惰な私は今も。て英語は苦手である。もうこの年になれば、英語を必要とすることも無くあの世へ行くことになるだろうが、次は三途の川を渉るとき、アメリカ人専用の船に乗り間違えないように、せいぜい用心しなければなるまい。

ramtha / 2016年4月11日