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七月二一日 「日本人の杖」

人間は自分一人では立って居られないらしい。何らかの杖を頼りにせねば生きて行くのが難しいので、多くの人々は、人知では計り知れない、全知全能の神というものを創り、これを杖とした。すなわちキリスト教・イスラム教などの宗教である。

また、人によっては学問、芸術あるいはスポーツなどさまざまなものを杖としているし、中にはいくつもの杖を持っている者も居る。

欧米人は概ね新旧キリスト教を、イスラム教徒はイスラム教を信仰しているようである。これに対して、日本人は、その大半が無宗教と言われているが、多くの家には神棚や仏壇があり、子供が生まれた時や七五三にはお宮参りをし、結婚式は教会で挙式し、葬儀はお坊さんにお経を挙げてもらうのが、一般的のようである。

とすれば、日本人の大半は宗教には、いい加減といわれても仕方がない。こうした傾向は最近始まったのではなく、考えてみると、ずいぶん昔からのようである。

六世紀半ば、仏経伝来の当初、受け入れ賛同派の蘇我氏と拒絶派の物部氏の争いがあったが、その後、奈良時代からは神仏混淆が一般的風習となった。明治維新で一度は「廃仏棄釈」といわれた神仏分離の政策が採られたが、結局は現状のようなことになっている。

こうしてみると、日本人は古来、何を精神的支柱としてきたのだろう。いろいろ考えてみて私は、日本人は神や仏ではなく、頼りにしてきたのは、家族を初め身の回りの人々であったし、今もそうではないかと思い至った。

「人間」という言葉を、漢字の本場中国では、どのような意味に使っているか知らないが、「あそこに犬を引いた人間が一人しゃがんでいる」など、日本では獣と区別された「人間」を第一義としている。また、それと同時に人間社会を意味している。

「人間」と言う言葉は、人と人の間だから、一人では成り立たない。二人以上の人が居て初めて人と人の「間」ができる。そう考えると、他人との関係があって初めて「人間=人」として認められることになる。言い換えれば、他人とのコミュニケーションがあって、初めて人格ある人として認められる訳である。

日本人を成り立たせて居る杖は、宗教ではなく、周囲の人との人間関係にあると考えられるが、どうして宗教を杖とする欧米人やイスラム教徒と異なったことになったのだろう。

日本列島は周囲海に囲まれ、過去の歴史を顧みても、先の第二次大戦を別として、「元寇」と言われる蒙古襲来の他に、外敵が攻めて来ることはなかった。だから大陸から渡航して来る人は、ほとんどが新しい文物を持ってきてくれる歓迎すべき人であった。

こうしたことから未知の人に対しても、警戒心より好奇心や尊敬心を持つ傾向が生じたのではあるまいか。

これに対して、古来、雑多な民族が混在し、紛争を繰り返して来た欧州など大陸の人々は、人間不信が先に立ち、未来永劫自分を裏切らない神を創り、なおかつこれと約束=契約を結んで、やっと安心したらしい。

日本人が他人を信じ易く、日本人以外の外国人が用心深い性格であることは今も変わりない。それは外交交渉などで日本は「外交下手」と、しばしば言われていることが、証明していると思われる。

それでは、グローバル化と言われる、これからの国際社会を生き抜くためには、日本人は一日も早く外国人のように、疑い深くなる必要があるのだろうか。

目先のことに対しては、それが良いかも知れないが、長い目で見ると、私はそうは思わない。国と国との関係においても、個人と個人との交際と同様に、信用が第一であると思われる。人と人の交流が増えてくるに従い、その信用はより大事なものになり、国際社会で必要不可欠のものとなるだろう。そういう時代にこそ、信頼される日本人の存在は評価され、日本の無形の財産となるに違いない。

そう考えて来ると、一見日本人は無宗教のように見えるが、実は日本人は刳りものの神を頼りとする宗教を超えた、周囲の人々を信頼し信頼される崇高な精神の持ち主であり、貴重な存在であると思われる。

最近は欧米文化の流入で、その存在が脅かれているが、今こそ大事にせねばならないと考えている。

ramtha / 2016年8月20日