先日の天皇陛下のお言葉で、生前退位のご意向を語られてから、皇位継承が間題となってくる。さしあたりは皇太子殿下が皇位を継がれるので、問題ないが、その次の皇位は本来なら皇太子殿下のご長男ということになるが、皇太子殿下には愛子様お一人で男のお子様が居られない。この問題については、かつて小泉内閣のとき「女性天皇」容認論も出たが、保守層が反対し、間も無く秋篠宮ご夫妻にご長男悠仁様がお生まれになって、議論は立ち消えとなった経緯がある。
今朝の毎日新聞では、自民党の二階幹事長が記者団に対し、「各界で女性が活躍しているのに、女性天皇が適当でないというのは通らない」と述べたことを伝えている。
日本史では、昔は推古代天皇や斉明天皇など、女性天皇が居られたことを学んだが、詳細は忘れてしまった。
そこで改めて日本史辞典で調べてみた結果、分かった女帝の生年、没年、即位年、退位年(以上いずれも西暦)及び両親、その他についての概略を記すこととする。
推古天皇 五五四~六二八 在位五九二~六二八
父・欽明天皇 母・蘇我稲目の女(むすめ)。敏達天 皇の皇后となり、崇峻天皇が蘇我馬子に殺されると、推されて即位。聖徳太子と大臣(おおおみ)・蘇我馬子とともに政治を行なった。
冠位十二階の制定、国史編纂、遣唐使派遣、仏教の興隆など、飛鳥時代の最盛期を現出した。皇極天皇 五九四~六六一 在位六四二~六四五
父・茅渟(ちぬ)王 母・吉備姫王(きびのひめみこ)
六四五年、大化の改新で弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位したが孝徳天皇没後重釿(チョウソ=再度天皇に即位すること)して斉明天皇となる。斉明天皇 五九四~六六一 在位六五五~六六一
父・敏達天皇の孫茅渟王 母・吉備姫王。初め高向王の妻で、のちに異母兄の舒明天皇の妻となり天智天皇・天武天皇を生む。舒明天皇没後に即位皇極天皇となる。
大化の改新で蘇我入鹿滅亡すると孝徳天皇に譲位。孝徳天皇没後即位斉明天皇となる。百済救援軍派遣のため筑紫朝倉宮に行き、同地で没する。持統天皇 六四五~七〇二 在位六九〇~六九七
父・天智天皇 母・蘇我遠智女(おちのいらつめ)。
天武天皇に嫁ぎ皇后となる。天武天皇没後、即位せず執政(称政)所生の草壁皇子没後即位。飛鳥浄原令を施行し、律令制国家の完成に努めた。元明天皇 六六一~七ニー 在位七〇七~七一五
父・天智天皇 母・蘇我倉山田石川麿の女。草壁皇子の妃で文武、元正両天皇の母となった。
文武天皇没後即位し、平城京遷都など行なったが、中次ぎ的性格が強い。元正天皇 六八〇~七四八 在位七一五~七二四
父・草壁皇子 母・元明天皇 聖武天皇に譲位。中次ぎ的性格が強い。
孝謙天皇 七一八~七七〇 在位七四九~七五八
父・聖武天皇 母・光明皇后 七三八年、女性で初の皇太子となる。藤原仲麻呂を重用し、皇太子道祖王を廃し、渟仁天皇に譲位。のち道鏡を愛したため仲麻呂反乱をおこすが失敗、淳仁天皇は廃された。
称徳天皇 七一八~七七〇 在位七六四~七七〇
七六四年、孝謙上皇は称徳天皇として重祚し、道鏡は法王までのぼる。「宇佐八幡神託事件」後に没した。
明正天皇 一六二三~一六九六 在位一六二九~四三
父・後水尾(ごみずのを)天皇 母・東福門院和子
紫衣(しえ)事件などにより後水尾天皇が俄に譲位して即位。奈良時代以来の女帝となった。後桜町天皇 一七四〇~一八一三 在位一七六二~七〇
父・桜町天皇 母・青崎門院舎(いえ)子。
桃園天皇の皇位継承者英仁親王の成長まで皇位をつぐ。
これを簡単な一覧表にしてみると次のようになる。
名 | 年齢 | 在位 | 父 | 母 | 夫 | 子 |
推古 | 七四 | 三六 | 欽明天皇 | 蘇我氏 | 敏達天皇 | |
皇極 | 六七 | 三 | 茅渟王 | 吉備氏 | 高向王 | 天智天皇 |
斉明 | 六 | 舒明天皇 | 天武天皇 | |||
持統 | 五七 | 七 | 天智天皇 | 蘇我氏 | 天武天皇 | 草壁王 |
元明 | 六〇 | 八 | 天智天皇 | 蘇我氏 | 草壁王 | 文武天皇 |
元正 | 六八 | 九 | 草壁王 | 元明天皇 | ||
孝謙 | 五二 | 九 | 聖武天皇 | 光明皇后 | ||
称徳 | 六 | |||||
明正 | 七三 | 一四 | 後水尾天皇 | 東福門院 | ||
後桜町 | 七三 | 八 | 桜町天皇 | 青畸門院 |
これを見て初めて知ったこと、教えられたことを列記してみる。
① 神武天皇から今上天皇まで一二五代の天皇の内女帝は十代だが、二度即位された方が二人おられるから、実人員は八人となる。
② 年齢は孝謙天皇の五二歳から一番長寿の推古天皇の七四歳までさまざまだが、平均すると約六四歳となる。
昔の貧富の格差はずいぶんあったことだろうから、当時の庶民の寿命は四十歳にも達して居なかったのではなかろうか。
③ 皇極天皇だけが茅淳王の息女で、他は全て天皇の息女となっているところを見ると、天皇の息女であることが女帝の基準であったことと思われる。
④ 元明天皇、元正天皇はもとより持統天皇、明正天皇などは中次ぎ的即位が明らかだが、女帝は一般的にそうした事情で選ばれたのではなかろうか。
⑤ 配偶者については、推古(敏達)皇極(舒明)持統(天武)は、それぞれ括弧内の天皇、元明天皇は皇位継承予定者の草壁皇子が居られたことが明記されているが、孝謙・明正・後桜町天皇については記録されていないので不明である。終身、独身であられたのではないかと推察される。
憶測するに女帝となられてからは、配偶者を迎えるのは、その処遇など、よろず不都合があり、認められなかったのではあるまいか。これは今後の女帝容認論でも問題となるものと思われる。
⑥ 配偶者の明記された女帝では、推古天皇にはお子様の記録が無いが、皇極天皇には後の天智天皇・天武天皇のお二人、持統天皇には草壁皇子、元明天皇には後の文武天皇・元正天皇のお二人が記録されている。
ところで第一子が男性である場合は問題ないが、第一子が女性で第二子以降に男子が生まれたとき、いずれを皇位継承者とするのかと言うことも、女帝容認論を論議するときに問題となるのではないかと考えられる。
ramtha / 2016年9月14日