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九州懐古の旅日記

昭和六十三年、長男恒士が飯塚市相田に新居を構え、八月二十二日に横浜から転居して行った。九月十八日に飯塚のがみ会館で麻生OB会が催されるという案内もあったので、新居見かたがた、OB会出席かたがた、懐旧の旅に出ることとした。

《九月七日》

東京駅八時発ひかり三号~小倉~折尾~直方~新飯塚。
筑豊線沿線も、直方までは北九州市のベッドタウン化したのか、新しい住宅が建ち並び、また東水巻、鞍手といった新しい駅が出来て、面目一新の感がある。しかし直方を過ぎると、昔ながらの風景が広がっている。新飯塚の駅で降りた途端、福井さんの奥さんに声をかけられたのにはびっくりした。

《九月八日》

新飯塚駅十時発~八幡。
八幡の駅前もずいぶん奇麗になったものだ。しかし新日本製鉄の主力が千葉県君津へ移ったためか、往年の活気は見られない。八幡駅で姉と待ち合わせて、一緒に前田教会へ榎本さんを訪ねる。久しぶりに見る榎本さんは、もう八十歳になろうかというのに姿勢が良く、元気なのには驚く。

八幡駅一四時発特急ひまわりで臼杵へ向かう。
宇佐、杵築、別府・・・と走るこの線は、私の六十余年の人生で、幾度通ったことだろう。幼い頃母に連れられて湯の平や臼杵に行ったとき、小学校三年の夏休み、兄と二人で臼杵の大伯父宅(高橋歯科医院)で過ごしたとき、中学四年の夏、兄と唐津、有田、小浜、雲仙、熊本、阿蘇、臼杵を巡って旅をしたとき・・・、いつも、この日豊線の列車に揺られて旅したことだった。

父が臼杵に居を移してから、学生時代、何度この線を通って帰省したことだろう。昭和十八年十二月、学徒出陣で、入隊のために臼杵から博多へ向かったときも、昭和二十五年四月、急死した父の葬儀に駆けつけたときも・・・

あれから幾星霜、沿線の街のたたずまいは変わってしまったが、車窓から見る海、山の姿は昔のままで変わりはない。沿線の風景は、さまざまな思いを抱きながら、列車に揺られた往時の数々を、蘇らせてくれる。中山香(なかやまが)の駅を通過したとき、駅舎の傍らに咲く、丈の高いカンナの花の鮮やかな赤が、私を回想の夢から引き戻してくれた。

臼杵駅十七時四五分着。臼杵駅は小さいままながら、綺麗に改装されていた。
臼杵は、母の実家高橋家が代々住んでいたところである。母から聞いたところによると、高橋家は稲葉藩の祐筆を勤めていたとか。それにしては、私をはじめ字のうまい子孫はいないようだが。

明治維新で、稲葉藩の禄を離れた祖父高橋重政が、軍人として熊本鎮台に勤務するのに従って、母は熊本へ移り、成人したということである。しかし、北海道の夕張炭坑に勤務していた父のもとに嫁ぐときは、この臼杵から発って行ったという。当時は、日豊線もまだ大分までしか通じていなかったということだから、大分までは、どうして行ったのだろう。馬車にでも揺られて行ったのだろうか。

母の叔父、高橋虎重が、どこで修業したのか分からないが、臼杵最初の歯科医として、本町に開業していた。幼い頃は母に連れられて、長じては兄と二人で、何度か遊びに来たことである。

戦時中、父が帝国マンガン㈱に勤務し、臼杵に駐在するようになり、また、戦後兄がここで歯科医を開業するに及んで、臼杵は私にとって帰省するところとなった。

《九月九日》

早朝臼杵城に登る。大友宗麟によって築城されたというこの城も、かつては雑草の生い茂る広場に過ぎなかったが、今では整備されて、綺麗な市民公園になっている。昔は豊予海峡へ向かって突き出していた亀の首と言われる岩の下は、埋め立てられて、町工場や造船所などが建ち並ぶ街に変身している。

午後、深田の石仏まで歩く。
有名な臼杵の石仏は、臼杵市街地より西方約五キロ、三重町へ向かう道路から、少し南へ入った深田の里にある。

小学校三年生の時、又従兄弟の滋野新平(当時小学校六年生ぐらいだったろうか)に連れられて来たのが初めてであった。その頃は、田圃に囲まれた丘の上に、柵も無く、大日如来の首は下に落ちたまま、その他の仏像も傷みが甚だしく苔むしていた。しかしそれだけに、歴史を感じさせる趣きがあったような気がする。

戦後になって柵をしたり、苔を落としてみたら色がついているのが発見されたりしたようだ。今では臼杵市の観光の目玉となり。入場料をとり、立派な駐車場や土産物の売店も出来て、すっかり俗化してしまっている。帰りもバスに乗り遅れため歩く。往復十キロ。

《九月十日》

午前中、小雨の中、傘をさして海添地区を散歩する。
亡くなった母が、かつて入院していた医師会病院から火葬場あたりまで歩く。

丘の上のこの火葬場で、親父の亡骸を荼毘に付したのは、昭和二十五年四月九日だった。焼却炉へと送り込まれる棺を前にして、臼杵教会の信者のみなさんが賛美歌を歌って下さったが、その頭上に、山桜の花弁がはらはらと舞い降りていた光景が蘇ってくる。
生前、西行法師のよう、花の下で死にたいものだと話していた親父は、臼杵城の満開の桜の下で、脳溢血で倒れ、そのままあの世へと旅立ったことであった。

午後、兄の車で津久見ヘドライプする。
小野田セメント(株)の、いわぱ企業城下町とも言うべき津久見市は、臼杵市に隣接する街ではあるが、リアス式海岸の入り江と山に妨げられて、ちょっと隣町までと言うわけにはいかない。昔は、幾つもの岬を巡って車は走らねばならなかったし、鉄道はいくつものトンネルをくぐってやっと辿り着くという有り様であったが、今は山の中に立派な臼津道路が出来て大変近くなった。津久見高校の甲子園での活躍で、今では臼杵より全国的に知られる町になったようである。

山の中腹を走る臼津道路は、今回初めて通ったが、海岸まで迫る山で隔てられた臼杵と津久見が、ずいぶん近くなったことを実感した。

昔は、臼杵から津久見の清さん(高橋清重、母の従兄弟、歯科医院を開業していた)の家まで行くには、国鉄を利用するしかなかったが、当時のダイヤでは、二時間に一本ぐらいしか無かったように思う。

海沿いに走る列車からは、幾つもの美しい入り江が見られたが、列車はたちまち、いくつもあるトンネルに入り、その度に、機関車の煤煙に悩まされたことが思い出される。

津久見の街外れにある新しい市民球場まで走る。久しぶりに見る津久見の街は、ずいぶん綺麗になったように思われたが、魚業とセメントと蜜柑の街であることには変わりはなかった。

反転して熊崎へ向かう。臼杵湾に面する松崎公園から対岸の臼杵の街を眺める。
帰途、かつて母と姉が一時住んでいた諏訪の家に立ち寄る。今は住む人もなく、廃屋となっている。あれは何年前のことだろう、次男の昌平がまだ幼児のころ、この前の川で遊ばせたことがあった。ここに来ると、いつも潮の匂いがして、なぜかお袋のことが思い出される。

《九月十一日》

かつて日本エグゼクティブセンター在職中に、一緒だった柴田喜代子さんを訪ねるべく、臼杵駅十時発JR列車で佐伯へ向かう。
柴田さんは、当時労金の役員をされていたご主人ともども、故郷大分県南海部郡本匠村に引き上げてから、もう六年ばかりになろうか。「臼杵まで来られたら、是非足を伸ばして下さい。」という以前からの誘いに甘えて、お伺いしたという次第である。

前日電話していたので、ご主人と一緒に駅まで迎えに来られていた。
ご主人の運転する車で、佐伯城など見せて頂いた後、佐伯駅から車で一時間ばかり入った山の中の柴田邸へ案内される。

柴田家はこの村の名家で、庭先に立って眺められる杉山は、今も柴田家のもので、その管理に苦労すると話されていた。その山の木をふんだんに使って建てられたのだろうが、百二十年以上になるという屋敷は見事なもので、天井を支える大きな棟木には、圧倒される思いである。遣水(やりみず)をしつらえた風格ある庭を眺めながら、ご夫妻の歓待をうけたが、柴田さん手作りのピーナツ豆腐と鰯のたたきは格別おいしかった。

ご主人は旧制福岡高校、九大を卒業されたそうだが、私の高校での同級生、春徹郎君の弟さんと同級であった由。穏やかな語り口で、佐伯中学へ通うために、佐伯市内に下宿されたことなど話されていた。お子さんに恵まれないこともあってか、お二人ともたいへん若々しく、仲睦まじい暮らしぶりが窺われた。

帰途は、大分に出られるついでがあるということで、臼杵まで、今度は、柴田さんが車を運転して、送って下さった。

《九月十二日》

多福寺へ両親の墓へお参りする。
我が家では私の姉、愛子と禎子、妹ルツ子がいずれも夭折している。大正末期のことで、抗生物質などない時代、疫痢や自家中毒で亡くなったのだろうが、その遺骨が、長年我が家に保管されていた。クリスチャンであった両親は、お寺の管理する墓地に葬りたくなかったのかも知れない。幼かった私は気にもしなかったが、父が亡くなった後、兄は臼杵の我が家からほど遠からぬ多福寺の墓地を求め、父と妹達の遺骨を納めることとした。

多福寺は、臼杵の街の中心である辻から、南へ小路を入って、急な石段を登ったところにある。百日紅の花が咲いている境内から東を向くと、臼杵のお城が真正面にあり、その右手に、臼杵湾に浮かぶ津久見島が見える。墓地は、本堂前の庭の右隅にある急な坂を登つたところにある。お寺の中にある墓は気に入らなかった母も、いまではここに眠っている。

臼杵は昔、大友宗麟が臼杵城を築き、その城下町として、また幕藩体制下では、稲葉氏三万石のお膝元の町として栄えてきた。海に面していることもあって、農産物、海産物の集散地としても、また海外貿易港としても盛んであったようである。そういうことで、案外豊かな町であったのだろう、昔から綺麗な町並とやたらと多い寺社仏閣が目につくところである。

墓参の後、寺町、二王座(におうざ)、平清水(ひらそうず)と、寺を訪ねて歩いてみた。あまり大きなお寺は無いが、軒を並べて宗派を異にするお寺が続いているのには、驚かされる。

善正寺の本堂の前には、庭石の上に親鷺上人の銅像が立っている。真宗大谷派の善法寺の山門は、なかなかの構えであるが、日蓮宗の法音寺の山門も、古めかしく味わいがある。真宗大谷派の蓮乗寺の山門には、

「人生やり直しは出来ないが、見直しはできる。」と記されていた。

平清水の大橋寺は浄土宗のお寺だが、その山門は珍しい高麗門である。しかし最も見事なのは、平清水の町中にある龍原寺の三重の塔である。

平清水の坂を上って福良(ふくら)の臼杵バプテスト教会を訪ねてみる。
クリスチャンであったお袋は、かつて港町の我が家でキリスト教の集会をしていたが、孝行息子の兄にせがんで金を出させ、この教会を建てたと聞いている。丘の上の小さな教会だが、信者でもない歯科医の兄にとっては、少なからぬ負担であったに違いない。

教会の門を入ると右手にささやかな牧師館がある。牧師さんの奥さんであろうか、乳飲み子を背負った女性が洗濯物を干していた。母の葬儀の行われた礼拝堂を見せてもらいたいとお願いしたら、奥から牧師さんが鍵を持って現れ、案内してくれた。自己紹介をしたら、若いその牧師さんは、
「貴方のお母さんのことは、前任の牧師から伺っています。この教会を建てられた方と聞いていますが、お名前は今でも信者の方々のお話で良く耳にしています。」
と言われた。

教会の内部は昔と変わりはなく、つつましいたたずまいながらも、綺麗に掃除がされていた。教会の隣は福良の天満宮となっている。天満宮の石段を降りると、平清水へ戻る。

平清水から西へ、三重町へ向かう往還を一キロほどのあたりから、左に折れたところの崖下に、塩石の石風呂というのがある。説明書きによれば、「阿蘇の凝灰岩で出来た崖を利用したもの。石を焼き熱して利用したものと思われる。明和九年(一七七二年)頃のもの。」とあるが、当世のサウナのような蒸し風呂として使ったものではあるまいか。

元の道に戻り西へ、深田の石仏の手前、清太郎のバス停から右に折れ、白馬渓に至る。

江戸中期、この地に遊んだ稲葉藩士某が、臼杵の町人と協力して、道をつけ橋をかけて観光地にしたという。桜と紅葉が美しいとか。しかし、この時期は訪れる人も無く、聞こえるものは滝の音と鱆しぐれのみ。白馬渓から白龍湖に登る。名前だけはものものしいが、変哲も無いちっぽけな池に過ぎない。更に上へと登り、TV中継塔のある小高い山の頂きに立った。眼下に臼杵の市街地が一望出来る。なかなかの眺めである。

下りは門前部落へ下りて、門前石仏を見る。中央に不動明王、その両脇に、制叱迦童子(セイタカドウジ)と矜羯羅童子(コンガラドウジ)が、凝灰岩の崖に彫り付けられているが、顔もさだかでない程傷みが甚だしい。説明書きによれば、平安、鎌倉期のものとか。
前面に柵はしてあるものの放置された感じでヽ観光地化された深田の石仏とは異なり、訪なう人も無い様子である。それだけに心をひかれるたたずまいである。当時の人はどんな思いでこれを彫り、どんな思いでこれを拝んだことだろう。

《九月十三日》

午前中に佐伯の高橋孝(母方の従兄弟)夫妻が訪ねて来た。長年勤めていた高校教員を定年退職し、今では、もっぱらゴルフ三昧とのこと。

孝は、母の弟高橋重成(陸軍砲兵少佐、昭和初期、旅順要塞に勤務していたが、帰国後結核を患い病死。)の三男で、私より二歳年下である。孝の家では、両親が早く亡くなり、五人いた兄弟は、いずれも伯父(高橋寛重)夫妻に引き取られ、熊本で養育されていた。伯父の死後は、しっかり者の次兄修(海軍兵学校へ進学。海軍航空隊の将校となっていた)が、昭和二十年フィリピン沖の空中戦で戦死したこともあって、離散してしまったようである。

満州国の陸軍軍官学校に在学していた孝は、終戦とともに引き上げ、ずいぶん苦労したようだが、教員免許を取得して、大分県各地の高校に勤務していたらしい。身寄りの少ないためか、若いころから、我が家のお袋を頼りにし、母が亡くなってからも、兄の家にしばしば出入りしているようである。私は、彼が昭和十八年軍官学校入学直前、上京してきた折に、九段会館で面会して以来のことで、すっかり見忘れていた。

この日の朝、亡母の従兄弟、高橋清重さんが、八十歳で死去したとの知らせがあった。午後、兄と二人で市浜の家に弔問する。十年ぶりに見るお茂さん(未亡人)は、昔ながらのちょっと甘ったるい語り口で話していたが、ずいぶん体が小さくなったように思われた。

弔問の後、一旦兄の家に戻り、十五時過ぎ仏舎利塔の丘へ登ることにする。
臼杵の仏舎利塔は、臼杵市街の北、臼杵川の河口に架かる橋を渡った向こうの丘の上にある。秋空をバックに白く輝くその姿は、街のどこからでも仰ぐことが出来る。
まだ橋の無かった頃は、市営の渡し船がこの川を往復していた。

渡し場の杙(くい)に船を舫(もや)って、川岸の石段に腰を下ろし、煙草を吸う年老いた船頭の姿が思い出される。乗客が現れると、舷(ふなばた)に煙管(きせる)を叩き付けて、灰を一吹(ひとふ)きして、やおら立ち上がり、竿を握り漕ぎ出していたものだ。

乗客のあり次第運行する、長閑な渡し船で、岸を離れたばかりのところに、遅れて来た乗客が大声で呼び止めると、引き返して乗せてやっていたこともあった。
もはや渡し船も船頭の姿も無いが、昔ながらの川の中には、白鷺の姿がいくつも見られた。

仏舎利塔のある丘は、さして高くはないけれど、陽射しが強く、汗になりながら登る。それだけに、丘の上の風は涼しく、格別心地よかった。

《九月十四日》

臼杵駅十一時発、豊肥線回りで飯塚へ。
大分駅から豊肥線に乗り換え、犬飼、三重町、緒方、竹田を経て、やがて阿蘇の外輪山の内懐(うちふところ)に入る。車窓から仰ぐ空には、夏の雲が阿蘇の頂きにかかっているが、広がる裾野を見渡すと、早くも薄(すすき)の白い穂が首を垂れている。幾度来ても胸の開ける思いのする風景である。

中学四年生の夏休み、兄と二人で熊本の方から上って来た。昭和二十七年には、麻生労務課の課内旅行で、杖立温泉から大観望を越えて来たこともあった。その後、文書課のときも、経理部のときも同じコースでやってきた。そうそう昭和三十六年頃だったろうか、かつて飯塚病院の結核病棟で入院仲間であった、大場富雄さんと阿蘇谷から高千穂峡へ抜けたこともあった。その時々の人、そのときどきの思いが蘇って来る。

宮地駅、阿蘇駅(昔は坊中駅と言っていた)周辺も、新しい時代の観光地の顔に変貌しているが、阿蘇の五岳の寝観音と言われる山容と、擦り鉢の縁のような外輪山の姿は、昔のままである。
熊本も下りて見たい気がしたが、翌日の予定があり、諦めて、飯塚へ直行する。

《九月十五日》

長男の車で八幡へ姉を迎えに行く。
夜は長男宅で、徳前の義母をはじめ親戚一同を招いて、新築祝いをする。長男一家に森平さん、彦六さん、健三さん、千津子さんに佐和子ちゃんと、久しぶりに賑やかな集いとなった。

《九月十六日》

姉を八幡へ送り、私は小倉へ。
私は八幡で生まれ、小倉で育った。四歳のとき八幡から小倉に転居。西原町、下到津(しもいとうづ)、そして西南女学院構内の教員住宅へと移ったが、六歳から小倉中学四年修了までの十年間は、西南女学院構内の家で生活した。小倉は私の故郷である。

私が東大在学中に、両親は小倉を離れたので、その後はゆっくり小倉を訪れる機会も無く、私の記憶の中に閉じ込められていたが、今回、半世紀ぶりに思い出の地を歩いてみた。

小倉駅が今の位置に移ったのは、何時のことだろう。
学生時代、東京へと旅立った当時の小倉駅は、今では西小倉駅と名前を変えていた。          。
その頃の室町電停から下到津まで電車に乗る。大門、金田(かなだ)あたりも昔の面影はない。日豊線と立体交叉する跨線橋は、昔ながらのものだが、昔は田圃の中だった下到津の電停も、今では賑やかな街の中となっている。

電車を降りて、電車通りから北へ、到津八幡宮への道を辿る。やがて板櫃川に架かる橋を渡る。橋を渡ってすぐ右手に、名前はもう忘れてしまったが、美人で独身の女医さんが住んでいたのを思い出した。中学一年生のとき、急性盲腸炎を患い、往診してもらったことがあったが、あの女医さんはどうしているのだろう。家のたたずまいも、すっかり変わってしまっているところを見れば、もはやどこかへ移って行ったのかも知れない。

道の正面に、到津八幡の長い石段が現れる。この石段を見上げると、ジャンケンをしては、石段の上がり下りを競った、あの子の名前はなんと言ってたっけ、幼友達の顔が浮かんでくる。

石段下の鳥居の横から右へ、到津小学校へ通じる坂道を上って行く。坂道の右手の藤吉君の家は、昔ながらの姿で建っているが、見知らぬ名前の表札が上がっていた。

藤吉君のお父さんは、黒崎窯業(株)のお偉いさんのようであった。しかしお母さんが早く亡くなり、お父さんは、会社の同僚で、列車事故で亡くなった大島氏の未亡人と再婚した。未亡人には連れ子が三人いたが、いずれも藤吉君より年上であったことから、彼は唖の弟と二人で、他人の家に居候しているような思いをしていたのではなかろうか。私の母が彼の継母と女学校時代の友達であったことから、私は自分より一歳年上の彼と良く遊んだものだが、当時子供心にも、彼の心の陰りが感じられたことが思い出される。

あれは、私が吉隈炭坑の旭町社宅に居た時のことだから、昭和二十四、五年の頃だったか、彼がひょっこり私の家に訪ねて来たことがあった。その時の話では、彼は桂川町(けいせんまち)で、清涼飲料の仲買商をして居り、子連れ未亡人と結婚し、生(な)さぬ仲の子供を育てているとのことであった。
「俺の昔を知っているお前なら、他人の子供を育てる俺の気持ちは、分かってくれるやろう。子供には俺と同じ思いは、絶対にさせたくない。」
と、話していたが、その後、絶えて会うこともない彼は、何処で、どうしていることだろう。彼はここにも帰って来ることはなかったのだろうか。

その家のすぐ先に、山下文具店と記した看板を掲げた小さな店がある。昔はもう少し坂の上の左手、八幡様への岐かれ道のところに、僅か三坪ばかりの文具屋があり、満州事変帰りの男が店番をしていた。店に出入りする子供をつかまえては、戦地での怪しげな自慢話をしていたが、あの男はたしか山下と言っていたような気がする。

もしやと思ってその店を覗いてみたら、記憶の中の顔とそっくりの中年の男が店番をしていた。尋ねてみると、やはりあの男の息子であったが、親父はもうずいぶん前に亡くなったと言う。死んだ親父の話をしたら、そんな話は初めて聞きましたとたいへん喜んでくれた。あまりに親父に似ているので、半世紀前の昔に戻って、当時の男と話しているような思いがした。

その店の先に右へ下る小さな道がある。少し下った左手に、昔は小倉中学で同級だった伊藤善男君の家があった。今も当時の家はあるようだが、住人は変わっているようだ。

伊藤君のお父さんは、小倉工業学校の先生と聞いたように思うが、何を教えていたのか分からない。しかし遊びに行くと、伊藤君の家では両親とお姉さんで、五万分の一の地図に沿って模造紙を切り抜き、積み重ねていく、立体地図作りをしているのを、何度も見かけたことだった。また、当時では本当に珍しかった天体望遠鏡が、座敷の緑先におかれていることもあった。

後年、麻生鉱業(株)に入社して、本社の重役応接室の片隅に、嘉穂郡一円の立体地図が納められたガラスケースが置かれているのを見たが、そのケースに「小倉市下到津、伊藤実体地図製作所」と記されているのを見出して、驚いたことがあった。

伊藤君の家は四人兄弟だったが、お姉さんが一番上で、その下に男の子が三人いた。長男は私の兄と同級生だったが、中学卒業後、たしか門司鉄道局に勤務中、応召し、中国戦線で戦死したと耳にした。次男の善男君はテニスの選手をしていたが、後年エンジニアの道へ進んだと聞いたように思うが、どうしているのだろう。そんなことを考えながら佇んでいると、「珍しいのお、佐藤やないか、寄っていけよ。」と、彼の呼ぶ声が聞こえて来るような気がした。

伊藤君の家の向かいは、その辺りで一番大きな屋敷であったが、何と言う家であったか、覚えていない。しかし、あれは昭和七年のことだったか、上海(シャンハイ)事変で、爆弾を抱え敵陣に突入自爆した肉弾三勇士(久留米工兵聯隊所属の江下、北川、作江の三人の陸軍一等兵。死後二階級特別進級で伍長に昇進。)に関するラジオ放送があるというので、この辺りで唯一ラジオのあるこの家に、聞きに来たことが思い出された。戦後、肉弾三勇士は戦意高揚のための作り話に過ぎないなどと聞かされたが、当時は子供心に、いたく感動したことが思い出される。

到津小学校の正門前から、西南女学院の講堂を仰ぐ。
昔は、緑の森の上に真っ白な姿が見えていたが、半世紀経た今では、いささかくすんで見える。

振り返って小倉の市街地を見下ろす。昔ここから見えていたガスタンクは、ビルの陰に隠れたのか、それとも無くなったのか、ずいぶん前のアララギに、

一片(ひとひら)の雲 ほほづきの 色となりぬガスタンクの やや左にて

という短歌があったが、多感な少年の頃、ここに立って暮れなずむ街の哀愁を感じた頃が、むしょうに懐かしい。

到津小学校の前の坂を向こうに下りると、正面に昔のままの矢野文具店の家がある。母親が女手一つで育て上げたと言うここの息子は、早稲田大学を卒業したが、当時は昭和初期の大恐慌で職が無く、親戚の風呂屋の番台に座っているなどと言う噂を耳にしたこともあった。しかし後にはNHKに入社、小倉放送局に勤めていたようだ。
そこから、戸畑への道を少し上ると、西南女学院の正門に至る。門内の坂を上ると、右手に少年期を過ごした家が、昔のままに建っている。

この家はもう六十年になるはずだ。その昔、軟式ボールを投げつけて遊んだモルタルの壁は、昔と変わらぬ無表情なたたずまいである。この家で受験勉強をし、また、この家で病床に臥した日々が走馬灯のように頭の中をかけ巡る。
西南女学院の昔の正門前の道は。やがて峠にかかる。

小学生の頃だったと思うが、ある寒い朝、この峠に労務者ふうの男が、額から血を流して倒れていた。人だかりしている間から覗くと、酒の上での喧嘩が原因だったのだろうか、まだ虫の息のその男は異臭を放っていた。

取り調べをしているお巡りさんのサーベルが、冬の朝日を受けて、冷たくキラリと光っていた。やがてその男は、村人達が用意したリヤカーに乗せられて、運ばれて行った。挽かれて行くリヤカーに寝かせられた男の上には、筵(むしろ)が被せられていたが、筵の裾から地下足袋を履いた両足がぶざまに投げ出されており、筵の端末がリヤカーの車輪にふれて、震えているのが見られた。

この峠から井堀の集落までは、人家も無く寂しい峠道だったが、今では両側にびっしりと住宅が建ち並んでいる。明治小学校へ通った頃の、あの長閑な田舎道はどこへ行ってしまったのだろう。

戸畑駅からJRで折尾へ行き、福井さんのお宅へ伺うが、奥様は風邪気味とのことで、早々に辞去した。

《九月十八日》

麻生OB会総会が、新飯塚のがみ会館で開催された。出席者百六十名。久しぶりの顔、顔。懐かしい人があまりに多いので、ただヤーヤーと声を交わすばかり。宴の途中で今川さんに呼び出され、すし豊に席を移す。そこへ間も無く井関幸雄、大塚武久、野見山真の諸君がやってきて合流する。久しぶりに今川さんの怪気炎にあてられる。

《九月十九日》

福岡へ出て、小鶴一男さんを訪ねる。
小鶴さんは日田生コンを最後に引退し、城南線六本松電停から南へ入った浪人谷に住んでいる。私は旧制福岡高校の三年間、この浪人谷界隈で暮らしたが、この辺りもす。かり変わってしまった。

小鶴さんとは、終戦直後、上三緒炭坑での実習生時代からのつき合いであるが、昭和四十六年。私が上京して以来、顔を会わせていない。

小鶴さんは私より二歳年上だったが、明治専門学校採鉱学科卒業の秀才であった。何がきっかけだったのか覚えていないが、報国寮の私の部屋にしぱしぱ来ては、駄弁っていた。彼の穏やかな人柄に魅きつけられてのことだったのだろう、その後親しくして頂いたことである。

久しぶりに見る小鶴さんは、昔ながらの禅宗の僧侶のような爽やかな面持ちで、私を迎えてくれた。一昨年来、胃の中のポリープにレーザー光線を照射する治療を受け、目下自宅で静養中とのこと。そんなことで、残念ながら酒の相手は出来ないが、話の相手は出来るから、君一人で飲み給えと、ビールの栓を抜いて勧められる。

しかし、かねて和やかな酒を嗜まれていた小鶴さんが、禁酒をしている目の前で、私一人飲めるものではない。ひたすら辞退するが、奥さんともども重ねて勧められるので、形ばかり頂いて、共通する友人の噂話や、上三緒以来の思い出のあれこれを語りあった。しかし、その後ついに再会することなく、これが小鶴さんとの最後の語らいとなってしまった。辞去する時、奥さんともども玄関先に立って、いつまでも見送って下さった姿が、今も忘れられない。

《九月二十日》

福岡へ出て、赤坂のパインマンションに熊谷さんの奥さんを訪ねる。
故熊谷常務には、私が労務課に勤務していた頃から、麻生在職中、たいへんお世話になった。熊谷さんは、私より一回り年上だったが、たいへん老成されておられたので、文字通り親父のように思われたことだった。仕事をはなれても、ちょうど手頃な碁仇であったので、幾度となく烏鷺を戦わしたこともあり、公私にわたり教えられたことも多かった。

そんな熊谷さんは昭和五十五年春、七十歳で亡くなられた。当時横浜に在住していた私は、仕事の都合で、葬儀に参列することが出来なかった。その年のゴールデンウィークに、飯塚のお宅に参上して、ご霊前にお詫び申し上げたことだったが、いまだに心残りとなっている。
そんな思いもあって、せめて奥様に昔話でもしてお慰めしてはと、お伺いした次第である。

天神バスターミナルからお電話して、教えて頂いた道順に従ってお訪ねしたら、奥様はエレベーターの前で、待っておられた。

お位牌にお参りしてから、小林さん、木庭さん、清原さんなど、昔の労働部のみなさんのお噂や、お宅に、伊藤昭一郎君等とお邪魔して、終日碁をうち、その度に奥様の手料理をご馳走になったことなど、つぎからつぎへと思い出話は尽きなかった。おいとまするとき、奥様には、近頃こんな楽しいことはなかったと、たいへん喜んで頂くことが出来、やっと長年の重荷を下ろしたような気がした。

熊谷さんのお宅を辞去して、太宰府に野見山芳久さんを訪ねる。野見山さんは、昭和三十三年から昭和四十一年の末まで、麻生本社の文書課で、苦労を共にした仲である。野見山さんは、日田生コン(株)の社長を最後に引退し、太宰府の閑静なお住まいに、余生を楽しんでおられる。

電話していたので、太宰府駅まで出迎えてくれていた。
静かな住宅街のお宅に案内され、奥様ともども歓待して頂いたが、久しぶりの再会で、心いくまで駄弁らせてもらい、命の洗濯が出来た思いをした。
帰途は彼の車で飯塚まで送ってもらった。

《九月二十一日》

今日は柏森(かやのもり)から施忠公園界隈を歩いてみる。
東京へ転勤するまで住んでいた柏森の社宅は、当時のままの姿をとどめていたが、今は空き家になっているようである。その向こうに、ひと頃麻生本社の独身寮となっていた家は無くなり、その跡地には、福岡銀行の社員寮であろうか、真新しい三階建てのマンションが出来ていた。

柏森の社宅に住んでいたのは二年ばかりであったが、敷地が三百坪もあり、大きな柿の木があった。亡くなったお袋、が、毎日のように柿の実を喜んで食べていたことが思い出される。

新飯塚駅から施忠公園への道筋は、熊野神社から先は人家もまばらだったと記憶しているが、今ではマンションなども出来、びっしり家が立ち並んでいるのには驚いた。しかし、昭和三十年前後、五年間ばかり住んでいた施忠公園下の社宅は、ずいぶん老朽化したものの、昔の姿をとどめていた。長女も長男もここで小学校に入学し、立岩小学校へ通学したことだった。

我が家にも電化時代がやってきて、ハンドルで絞る夕イプの洗濯機が、初めて据えられたのも、ここの社宅であった。黒白テレビが一般家庭に普及しはじめたのも、その頃だったが、我が家の屋根にアンテナが立ったのは、ここの社宅では、一番最後であった。電気冷蔵庫にはまだ手が出せず、我が家の台所には、小さな氷冷蔵庫が据えられていた。社宅の入り口にあった会社の売店まで、毎日氷を買いに行かせられたと、先日も長男が思い出話をしていた。

雑草の生い茂った社宅の通路に佇むと、藤松さん、野口さん、二見さん、浅原さんなど、当時のご近所の方々の面影が浮かび、子供たちのはしゃぐ声が、その辺りから聞こえてくるような思いがする。

社宅の後ろに旌忠公園の丘がある。桜並木に縁取られた上り坂のたたずまいは昔と変わらないが、丘の上からの眺めは一変している。

新飯塚の方を見下ろすと、いくつも高いマンションがあるのに驚かされるし、愛宕炭坑の跡地は新しい住宅が立ち並ぶ住宅団地となり、昔の面影は無い。

公園と愛宕団地の間の谷間を走るJR筑豊線を、昔は石炭を満載した長い長い貨物列車が、昼夜を問わず運行していたものだが、今ではわずか二輌編成のディーゼルカーが、走っているに過ぎない。

長女が愛宕の幼稚園に通っていた頃だったろうか、子供達の手をひいてこの丘の上に上ってきたとき、折しも満開の桜の花が、筑豊線を走る石炭列車の上に、ハラハラと散る光景を目にしたことが思い出される。

《九月二十二日》

後藤恒子さんのお宅へ伺う。
先頃こちらに来ていることを電話したところ、是非お立ち寄り下さいとお招きを受けた。
もともと後藤さんは、家内の友達であったのだが、昭和三十一年、肺結核を患い、飯塚病院に入院した時、後藤さんも同じ結核病棟に入院していたところから、親しく話を交わすようになった。当時、新飯塚駅の駅長を定年退職したお父さんが、駅前の食堂をされていた。そこに後藤さんの友人の麻生さんという女性が、身を寄せておられ、毎日のように後藤さんのところに、食べ物などを持って見舞いに来られていた。

後藤さんは飯塚病院の衛生検査技師をしておられたが、私より一つ年上で、読書の傾向も私と共通するところが多く、お互いに、療養中の無聊を慰める格好の話し相手となったことである。また、麻生さんは、私より五歳ばかり年下であったが、かつて私の母校、戸畑の明治学園の教師をしたこともあるとか、ボーイッシュなさっぱりした性格で、話の面白い女性であった。

その日は、後藤さんの手料理を囲んで、麻生さんと三人で、入院仲間の動静や、飯塚周辺の移り変わりなど、話は次から次へとなかなか尽きなかった。

《九月二十四日》

篠栗線で博多へ出て、新幹線で帰路につく。
九州は、大正十一年に八幡で生まれ、昭和四十六年に上京するまで、半世紀にわたって生活してきたところだから、訪ねたい思い出の地はまだまだ沢山ある。しかし、横浜の家を出て半月余もなるので、このあたりで引き上げることとした。顧みるとわずか二週間あまりに過ぎなかったが、私にとっては内容豊かな回想の旅であった。

ramtha / 2016年10月10日