雄三が樺太より帰還した安政元年の六月、幕府は函館周辺の地を上知し、函館奉行を設置している。蝦夷地防衛にあらためて危機感を抱いてのことだろう。
しかしこうした措置はいままでにもなされたことがあるが、江戸から見れば、蝦夷地は遠隔の地であり、幕府首脳部も平時はあまり関心を持たなかったに違いない。
ここで、松前藩と幕府の歴史的関係について、簡単に見ておこう。
もともと現在の北海道、蝦夷地は鎌倉時代以降、津軽の安藤氏が管轄していたようであるが、十五世紀半ばには渡島半島南端部に安藤氏配下の諸豪族が館を築いて割拠するようになった。こうした和人の進出は、当然先住民であるアイヌ人との対立を深め、長禄元年(一四五七年)、コシャマインの蜂起と言われるアイヌ人の大反乱が発生した。
この蜂起の鎮圧で大きな役割を果たした上の国の蠣崎(かきざき)氏が、これを契機として各館主を相次いで臣従させ、急速に勢力を拡大し、永正十一年(一五一四年)居を上の国から大館(松前)に移し、蝦夷地における唯一の現地支配者となった。
その後、第五世蠣崎慶広の時、秀吉より船役徴収権を公認され、慶長九年(一六〇四年)家康よりアイヌ交易独占権を公認されて一藩を形成するに至った。
なお、慶広は慶長四年に氏を松前と改め、福山館を築城している。
ところで松前藩の特異なところは、その存立の基盤が他の大名のような領地ではなく、幕府から認められたアイヌ交易権である点である。当時の蝦夷地では稲作は行なわれていない。従っていわゆる石高はなく、大名としての家格(一万石格)も。元和九年(一六二二年)将軍秀忠の上洛に、『一万石の人積もり』で供奉したことによって、はじめて認められたもののようである。
いずれにしても、幕府にとっては、松前藩はそれこそ地の果ての、あるか無きかといった存在で、アイヌの反乱やロシア人の侵犯が無ければ、関心を寄せることも無かったに違いない。
松前藩の藩史略年表に現れる、幕府に関する記録を見ても、その辺りのことが窺われる。
三代将軍家光の寛永十年(一六三三年)に、幕府は初めて蝦夷地へ巡見使を派遣しているが、その後、十代将軍家治の宝暦十一年(一七六一年)までの約一三〇年間に、七回巡見使が蝦夷地を訪れている。およそ二十年間隔で、派遣されていることになる。
遠隔の地で、また交通手段の乏しい時代とは言え、幕府首脳の無関心さが窺われる。
また蝦夷地での利権を独占する松前藩も、幕府の関与を嫌い、たまに現れる巡見使も、今日の中央官庁役人の地方視察と同様に、もっぱら福山で官々接待を尽くして送り返していたのではあるまいか。
もっとも松前藩の搾取に対して寛文九年(一六九九年)アイヌ人が反乱蜂起したシャクシャインの乱のときは、幕府は、小姓組の松前泰広(松前家の一門ではあるが)を蝦夷地に派遣し。鎮圧軍の総指揮に当たらせている。
いずれにしても、松前藩としては、幕府の目の届かぬ辺境で、アイヌ人から搾取を重ねて、懐を膨らませていたが、その実情を見られることを、ことさらに嫌っていたようである。
天明七年(一七八七年)探検家最上徳内が蝦夷地を経由して大陸に渡ろうとしたが、松前藩はこれを拒否している。最上徳内は、その前年(天明六年)には、千鳥列島をクナシリ・エトロフからウルップ島まで探検しているが、この時、松前藩を刺激するなんらかのトラブルがあったのだろう。
二年後の寛政元年(一七八九年)、クナシリ・メナシ地方のアイヌ人が蜂起し、和人七十一人を殺害するという事件が発生している。この時、松前藩としては藩兵を出動し鎮圧に当たっているが、事の重大性から、幕府は津軽・秋田・南部の三藩に加勢を命じている。
これらを見ると、松前藩の搾取に対するアイヌの不満はかねてからあり、松前藩は、その対策の不手際を幕府に咎められることを恐れ、ひた隠しに隠していたことが窺われる。
その後、寛政四年(一七九二年)九月には、ロシア使節・フックスマンが、漂流民となった伊勢白子の船頭幸太夫等を護送して根室に来航し、通商を求める事件があり、寛政八年(一七九六年)には、英国船プロビデンス号が、蝦夷地アフタに碇泊、樺太西岸、日本沿岸を測量するなど、にわかに異国船の出没で騒がしくなってきた。
こうした蝦夷地の統治と異国船に対する対応は、最早松前藩には任せては置けないと判断したのだろう、幕府は、寛政十一年(一七九九年)東蝦夷地、浦河から知床に至る地域を上知して直轄地とし、蝦夷地取締御用掛に書院番頭松平信渡守忠明らを命じている。
(註)上知(ジョウチ)=土地をお上に返納すること。(広辞苑による)
なお、右の措置に伴って、松前藩に対しては、武蔵国埼玉郡久良岐の地五千石が与えられている。
また幕府は、南部・津軽の両藩に函館を本営として東蝦夷地を警備させることとしている。
当時の松前藩主松前道広は、明和二年、わずか十一歳で藩主となっているが、幼少の頃から英明、傲慢な性格で、幕閣に対して反発的態度をとり、また派手好みで浪費も甚だしく、藩財政も極度に逼迫し、商人に対する支払いもしぱしば滞り、再三幕府から戒告を受けている。
また彼はロシア人の南下に対して、何等の対策も講じようとはしなかった。
こうしたことから、文化四年(一八〇七年)幕府は西蝦夷地も上知し、松前藩は陸奥国梁川へ転封されている。
なおこのとき、道広は永久蟄居となっている。
なお、これに伴い、幕府は従来の函館奉行を松前奉行と改称し、奉行所を福山に移している。
一方、松前藩では、新封地の歳入不足を理由に家臣のリストラを行なっている。
藩史大事典によれば、松前在住藩士の六二%に当たるニー○余名に暇を出している。これを見ると、いままでの蝦夷地における松前藩の権益がいかに大きなものであったかが窺われるが、同時にこの転封が松前藩にとって相当過酷な懲罰であったことが分かる。
暇を出された藩士の多くは松前奉行所が採用しているようであるが、彼らは大会社に吸収合併された斜陽会社の社員のような屈辱と悲哀を経験したことだろう。
しかし、梁川在住十四年の後、文政四年(一八二一年)幕府は蝦夷地を松前藩に返還、翌年道広公の蟄居も赦免されている。
この措置について、幕府の公式の理由は、幕府直轄以来蝦夷地の取り締まりが整ったこと、アイヌの撫育、産物の取捌きが軌道に乗ったこと、松前氏が蝦夷地における草創の家柄であることなどとしているが、内実は、口シアの南下が一時衰え、北辺の危機が一時的に薄らいだことと、蝦夷地経営費が幕府財政にとって少なからぬ負担となっていること、さらには、松前氏の執拗な復帰工作があったことなどによるものと言われている。
こうして松前藩は旧領に復し、しばらくは平穏に経過したかのように思われたが、弘化三年(一八四六年)アメリカの捕鯨船の船員七名がエトロフ島に漂着するなど、この頃から再び外国船が蝦夷地近海にしきりと出没するようになってきた。そして嘉永六年(一八五三年)には前述したように、ロシア海軍が樺太に上陸。砦を築く事件が発生している。
こうした事態に北辺の危機を感じ、幕府は、安政元年(一八五四年)再び函館周辺の地を上知、函館奉行を復活設置している。
さらに翌年安政二年、幕府は東部木古内以東、西部乙部以北の蝦夷地をも再上知し、蝦夷地の警備に松前藩のほか仙台・秋田・南部・津軽の東北各藩に命じている。
このとき上知の替え地として、陸奥国伊達郡梁川、出羽国村山郡東根の計三万石、出羽国村山郡尾花沢一万三百五十石、さらに毎年金一万八千両が松前藩に与えられている。
以上のような経緯を見ると、変転する外圧に右往左往する幕府と、場当たり的なその施策に翻弄される松前藩の姿が浮かび上がって来る。それと同時に、その間にお互いの不信感が増していったのではないかと思われる。
ramtha / 2016年10月23日