安政三年(一八五六年)十月、雄三は町吟味役に転じ、さらに安政四年(一八五七年)五月には、出羽国尾花沢の奉行に転勤、ついで東根奉行を兼務している。
前述したように、安政二年松前藩は、幕府から木古内以東ならびに乙部以北の蝦夷地を召し上げられる代償として、出羽国尾花沢ほかの内地の地を与えられている。
松前藩としては、本拠地福山周辺以外の蝦夷地を取り上げられたことによって失われた歳入を、あらたに与えられた内地の領地からの税収で補わなければならない。しかし、代替地として幕府から与えられた地域は、それまで幕府の直轄地、いわゆる天領といわれたところである。
一般的に、江戸時代の天領における微税率は、諸藩のそれより緩やかだったと言われている。幕府はもともと肥沃なところを選んで、天領としたことだろうが、恵まれた条件の下で、長年暮らしてきた領民としてみれば、松前藩の支配を受けることには、抵抗感があったに違いない。
松前藩の本拠から遠く離れたところで、猜疑心を持つ領民を治めていくのは容易なことではなかったことと思われる。
尾花沢というのは、山形県東北部、今日では尾花沢西瓜の産地として有名だが、かつては羽州街道の宿駅で、戦国時代には銀山で栄え、江戸時代には紅花栽培が盛んに行なわれたところと言われている。
また、東根は、尾花沢からやや南、天童よりやや北に位置し、リンゴやサクランボの産地として知られている。いまでは山形新幹線が通り。「さくらんぼ東根駅」という珍しい名前の駅があるようだ。
雄三は三十四歳で、これらの新領地を治める責任者となっているが、記録によれば、彼は就任以来、窮乏農民の救済撫育に努め、道路を修復建設し、荒蕪地を開拓するなど、領地の治安の維持と産業の発展に鋭意努力し、たびたび藩主からその功績を賞せられている。この間の職務は、彼の素志である蝦夷地の防人ではなかったが、領民の生活の安定と領内の繁栄に、その行政手腕を遺憾なく発揮し得た、もっとも充実した時期で、顧みて彼自身満足することが出来たのではあるまいか。
ramtha / 2016年10月20日