慶応四年八月十九日、旧幕府海軍奉行榎本武揚は幕府の艦船八隻を率いて脱走、石巻港に入る。(この年、九月八日に明治と改元されている。)
九月には仙台・会津藩はすでに降伏しているが、旧幕府の歩兵奉行大鳥圭介等が兵二千五百を率いて榎本軍に合流。榎本軍はこれを合わせて北上し、十月二十日(新暦では十二月三日)、土方歳三を先頭に、折からの風雪をついて鷲の木に上陸、函館へと進軍している。
この時函館にある官軍は、佐竹・大野・津軽・松前等の兵、わずか二百という有り様。抵抗するも衆寡敵せず敗退、松前藩兵士は福山に引き上げている。
また松前藩の函館留守居役安田拙三は、新政府の清水谷知事に従い、外国船で青森に逃れたが、福山城(松前城)に居る藩主徳広を一時青森へ待避させるべく、福山に戻った。しかし藩主は既に館城に移っていたので、さらに江差へ赴き準備をすすめていたところ、この計画を知った総軍事方鈴木織太郎が激怒、安田親子を軍法違反として処断、殺害している。
革命期にありがちな、内部分裂による悲劇であるが、この間の事情について、雄三はみずからの経歴書の中で、次のように記している。
『福山城陥るに先立ち、函館留守居役安田拙三、清水谷公の篤志を奉じ来たるや、諸老臣に推され、拙三と共に大坂艦に搭乗して、君公を青森に迎えんとし館に赴く。
当時、藩議動擾、衆心一ならず。一は拙三擬使なるを唱え、城地と存亡を一にせんとし、他は勝算なきの軍に可惜(あたら)将卒を失うも家国に益なし。暫く鋒を青森に避け、官軍の援兵至るを待って、大挙賊を鏖(みなごろし)にするも未だ遅しとせずとなす。織太郎等、前説を主張し、安田父子を斬るに至る。」
なお藩士事典によれば、鈴木織太郎の母は、十一代藩主昌広の後房に仕え、崇広を生み、後に出て鈴木文五郎に嫁し、織太郎を生んだ。つまり崇広と織太郎とは異父兄弟の間柄であった。彼は江戸の昌平黌に学ぶなど、才学優れていたにも拘らず、その性情・言行ともに過激粗暴で、とかく人々の怨嗟を買うことが多かったようである。なお、その異常な行動のため、崇広公の逝去後、江戸屋敷に幽閉され、その後も狂気は亢進し、狂人のまま明治七年、三十二歳で死んでいる。
さきの正義隊によるクーデターのときも、佐幕派と目される藩士が殺害されるなど、多くの血が流れているが、これも彼の指令によるもので、松前維新の悲劇をことさらに大きくしている。
榎本軍は函館を攻略、十月二十五日、五稜郭を占領。二十七日には、福山攻撃に向かっている。福山でも松前藩士は奮戦これ努めるも利あらず、福山城は陥落、館城へと落ち延びている。榎本軍は勢いに乗じてさらに館城に迫り、松前勢はここでも抵抗を試みるが、敗退、熊石へ向かう。
雄三の義子尾見幹は、当時二十三歳の青年将校として、函館の攻防戦以来、すべての戦闘に参加し、悪戦苦闘のかぎりをつくしているが。幸いに命を失うことなく、熊石に辿りついている。
十一月十九日、藩主徳広が熊石より海路青森へ退避するとき、雄三も幹も君側に侍従することを命じられるが、小船のため、乗船人員に限りがあり、やむなく幹は蝦夷地に残り潜伏し、情報収集活動に従事している。
雄三は藩主に従って本土に渡り、十一月二十六日、弘前の薬王院に仮本営を設けている。
もともと病弱であった藩主徳広は、戦乱の中の逃避行の無理が禍したのか、病気を誘発し十一月二十九日、旅先で亡くなっている。享年二十四歳であった。
戦事多端の折、なにかと混乱もあったかと思われるが、雄三ら重臣の奔走により、十四代藩主には、徳広の長男勝千代が就任することとなった。しかし勝千代はまだ五歳の幼児のため、崇広の子隆広(幼名敦千代)が代わって兵を率いることとなり、翌明治二年一月、弘前に入っている。
他方、榎本武揚は蝦夷地を平定、明治元年十二月十五日、総裁に就任、五稜郭を本営としている。これに対して新政府は津軽・岡山・久留米など諸藩の兵を青森に派遣し、雪解けを待って攻撃を閧始すべく態勢を整えている。
明治二年四月、新政府軍は所属艦隊の応援を受け。蝦夷地へ渡航、渡島半鳥の西岸乙部に上陸、江差、松前へと進軍、次々に榎本軍を撃破。さらに福山、函館へと向かっているが、戦況は、先の榎本軍の蝦夷地侵攻のときとまったく立場を逆にした展開で進行している。
その後、土方歳三の奮戦など榎本軍の抵抗で、激しい戦闘が各地で繰り返されたが、新政府艦隊の艦砲射撃など圧飼的な戦力の前に榎本軍は壊滅、五月十八日、降伏するに及び、ようやく函館戦争も終わり、松前にも平和が戻ってきた。
この間の行動について雄三は、その経歴書に
「藩主青森に退くや、余常に側に侍し、辛楚艱難大いに其恢復を計る。後官軍扱兵来たるに及び、先君の霊牌を奉じ、函館方面に向かう。功を以て家格中書院上席に進めらる。尚、一代準寄合席格となる。」
と簡潔に記しているのみである。
函館戦争の顛末を記した責料によれば、このとき榎本軍討伐に向かう松前藩の兵力は三分して、青隊は松前右京、赤隊は尾見雄三、白隊は下国東七郎が率いると記されているところを見ると、雄三は松前軍の主力都隊長として終始戦場を駆け巡っている。
函館戦争は鳥羽伏見の戦いからはじまる一連の戊辰戦争の中でも最も長く激しい戦闘が繰り広げられている。ことに松前兵は、自領恢復の戦いでもあり、応援する他藩に対しても、常に先陣を務め、最も手強い敵に立ち向かって行かなければならない立場にある。
四月九日の乙部上陸以来、五月十八日榎本軍陣伏まで約四十日間、松前兵は最も苦しい戦闘を強いられたことだろう。雄三もかずかずの戦果を挙げたことと思われるが、松前藩士としては、それは失地恢復に過ぎず、他人に語るべきことではなかったに違いない。
藩主を擁して松前城に凱旋することは出来たが、二度の戦闘で城下は灰燼に帰し、見るも裏れな光景を呈していたことだろう。
雄三にとって、それは凱旋とは言いながら、とても胸を張ってとは言い難い、苦い思いを抱いての帰還であったのではないか。
ramtha / 2016年10月12日