筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

九、上磯町の落合治彦氏を訪ねる

六月十六日、タクシーでJR江差駅へ。八時十二分発函館行き列車に乗る。

江差へ来るときはパスで海岸線を走ったが、帰りの列車は木古内まで山の中を走る。本土では見慣れない草木の生い茂る森や、人家も疎らな原野を抜けて木古内に至る。

ここからは海辺を走り、前日落合氏から指定された上磯駅より一つ先の清川口駅で下車する。小さな駅である。改札口を出ると、私たち夫婦に声をかけて来られる紳士がいる、初めてお会いする落合氏である。早速落合さんの車でご自宅へ案内される。

落合家は明治初期上磯村の戸長を勤められた旧家のようであるが、さすがにりっぱな邸宅で、通された座敷の調度品も由緒ありげなもののように見受けられた。

落合治彦氏は私より十歳位年下ではないかと見受けられたが、姿勢の良いまことに上品な紳士である。

話が尾見雄三のことに及ぷと、奧から研究資料の文箱を持ってこられたが、蓋の表に「尾見雄三分」と書かれている。このように分類整理された資料が、他にも沢山あることが窺われ、落合氏の造詣の深さが思われた。

尾見雄三に関する資料のいくつかをコピーして頂いたが、中でも落合さんが函館の図書館で見つけられたという尾見雄三の写真を二枚頂いた。一枚は江差奉行時代のものであり、もう一枚は晩年のものである。

二枚の写真を見比べると、別人ではないかと思われるほど変貌している。明治維新の動乱期を潜り抜け、さらには十年余におよぶ上磯村での開拓の苦労が、このような変貌をもたらしたのだろうか。

これを見ると.波乱万丈の人生を顧みて、雄三自身が晩年どのような感懐を抱いたのか、いずれ冥土で会うことが出来たら、訊いてみたい気がする。

また落合氏のお父さんは「子供の頃、開拓村で尾見雄三の家に遊びに行った時、座敷の長押(なげし)に槍が架けられているのを見て、さすが士族の家だと思った。」と話しておられたとか。

函館の高龍寺でのことを話すと、
「プライバシーに関わるから過去帳を見せられないというのは、京都の本山からの指示のようですよ。京都ではいろいろとうるさいことを言うようですが、北海道には関係ないことですがね。私たちも郷土史研究のため見せて貰いたいのですが、困っているのです。お会いになった住職は最近お寺を継いだばかりで、何も知らないと思いますよ。」
ということであった。

初対面というのに、いろいろと懇切に教えて頂いたうえに、魚や若芽などの具が沢山入った珍しい五目ラーメンまでご馳走になった。

その後、落合さんに勧められるままに、車に乗せて頂き、かって尾見雄三が開拓した農地へ案内してもらった。今では大半が放置され、雑草が生い茂っている中に、わずかな露地野菜とビニールハウスが見られる。

その農地と道を挟んだ向かい側の木立ちの中に小さな社がある。開拓村の守り神として、尾見雄三等が建てたといわれる三好八幡宮である。旱魃(カンパツ)の時は、ここで雨乞いをし、豊作の年には賑やかに秋祭りをしたことだろう。

風に揺れる注連飾りを見ていると、この境内で.縄跳びや鬼ごっこなどして、はしゃぐ当時の子供たちの声が聞こえて来るようだ。

落合さんのご好意に甘えて、上磯駅まで送って頂く。
落合さんは、この界隈ではとてもお顔の広い方のようで、駅の待合室に入ると、すぐ何人かの人から声をかけられておられる。
別れ際に、落合さんから『娘の嫁ぎ先の物で・・・』と、立派なお菓子を土産に頂き、重ね重ね恐縮した。

十三時四五分発函館行きの列車に乗る。家内の向かい側の席にかけている中年のご婦人は、先ほど待合室で落合さんと話しをされていた人のようである。その女性の質問に、家内が初めて落合さんに会ったのだと応えると、
「あの方は、回りのみなさんに行き届いたお世話をされる、とても人望のある立派な方ですよ。」
と教えてくれた。

ramtha / 2016年10月17日