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十月一日「私の無宗教」

珍しくクリスチャンの孫から、入信勧誘の便りがあった。人生の終焉を間近に控えながら、未だに無信心な私を心配してのことであるに違いない。私にはその気は全く無いが、折角の好意を無視するのも如何かと思われ、私の考えを遺言代わりに知らせることとした。

佐藤家の祖先は代々仏教徒で、お墓も北海道・函館の高龍寺というお寺の墓地にある。しかし両親は、クリスチャンで、北九州・八幡のバプテスト教会の集会にしばしば参加していた。私も小学校に上がる前は、そこの日曜学校に連れて行かれたものである。

その時、聖書も覗いたこともあったが、聖書の冒頭はヤコブに始まるユダヤ民族祖先の歴代の名前が延々と続くもので、ちっとも面白くなくすぐ止めてしまった。

また教会では、人間は罪深いもので、自分の犯した罪を神様に告白し、その許しを受けなければならないことになっていて、日曜学校では、前週にした喧嘩や悪戯など悪いことを、みんなの前で告白させられていた。

他人の前でそんな恥ずかしいことなど、誰も嫌がり、あまり恥ずかしくない程度の話を創って誤魔化していたが、これでキリスト教嫌いになり、次第に教会から遠ざかり、小学校入学の頃からは、もう行かなくなった。

旧制高校生の頃から、宗教とは何だろうと考えたりしたが、人間の日常生活には、倫理道徳は必要だが、宗教は何のためにあるのか分からない。

日本古来の宗教と言えば神道であるが、神道はもともと不可思議な自然現象を神の仕業(しわざ)としたもので、これに祖先崇拝が加わって出来たものではないかと思われる。

科学的知識など無かった古代の人にとって何か分からないが、おどろおどろしいものの代表は、一天俄にかき曇り、激しい風雨を伴い轟き渡る雷鳴であったに違いない。
これを「かみなり」と言い、この世を支配する最も怖いもの、神の怒り声と考えたのではないか。

また規則正しい日月の運行も四季の移り変わりも、草木が生い茂り、やがては見上げるような大木となることも、全て神の仕業と思ったのではなかろうか。朝日を拝んだり、樹木の精を木精(こだま)と言うのもその一例だろう。

広く遠い宇宙はもとより、我々のまわりには、科学的に解き明かされていないことが沢山在る。科学の発達していない昔は、人間にとって分からないことや不思議なことだらけで、人間を恐怖と不安の中に陥れていたに違いない。当時の人は、それを解消するために神様というものを創り、そのせいにすることによって、取り敢えず安心したのだろうと、私は考えている。

科学によって解明されている今日の知識も、永遠に正しいとは言い切れない。過去においても、それまで正しいとされてきた天動説がコペルニクスによって地動説に訂正されたような例も少くない。

このように、今日正しいとされている常識も、明日は修正されるかも知れない。これを基礎に置いて考えると、キリスト教やイスラム教の神が教えるものは、正義と慈愛に満ちて、罪多き人々を救い、信者を天国へ導くものと聞いているが、果たしてそうだろうか。

私は欧米などの宗教は、その時の権力者が大衆を統治しやすくする手段として、創り出したのではないかと推測している。

為政者が大衆を動員する時、為政者本人の考えとするより、目に見えない神のお告げとする方が、迷妄な一般大衆には有り難く感じられ、命令を徹底させる上で有効であったに違いない。その宗教は、信者や庶民の救済や幸せのためのものではなく、為政者とその取り巻きの便宜のためのものであったのではないかと、私は考えている。

ユダヤ教はユダヤ人だけに神から与えられたものにも拘らず、その恩恵をユダヤ人以外にも及ぼそうとしたイエス・キリストは裏切りものとして処刑されている。

また、中世のヨーロッパ諸国のキリスト教指導者も、それぞれの国の為政者と結託して、民衆から冷酷な搾取をしていたようで、これが後の宗教改革の原因ともなっている。

その結果、十七世紀にはカトリックとプロテスタントとの間で、三十年戦争など激しい争いが、繰り返されている。

今ユダヤ人の国イスラエルは、神から自分たちに与えられた土地という神話を盾にして、パレスチナ人の住む土地に攻め込み、我が物とする非道な行為を繰り返している。国連総会で非難決議をしても、それを無視して平然としている。

今日国際的話題となっているイスラム国(IS)が世界中で無差別テロをし、殊にアメリカ本土で行ない、これに対して、アメリカの民間人が、在米イスラム人に報復攻撃をしていると伝えられている。この原因も遡れば、かつて白人(キリスト教徒)が、イスラム教徒の居住地北アフリカを長年植民地支配し、弾圧と搾取をした来たことにあると、私は考えている。

西欧諸国のキリスト教徒が、エルサレムからイスラム教徒を追い払うために、遠征した十一世紀の十字軍も、宗教対立の戦争であった。

こう見てくると、世界史の戦争の大半は、宗教が原因だったということが良く分かる。だから、私は宗教が嫌いだ。人間の創った神様など、ちっとも有り難くない。

しかし私は、他人に無宗教を押しつけることも、勧めるつもりも無い。人間の考えは人さまざまで、それで世の中のバランスが保たれているからだ。

ramtha / 2016年10月21日