筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

1月8日~10日

1月8日 晴れ

今日は保坂牧場より牛糞二トン到着。
その処理などで、犬の運動と郵便局までの往復のみ。 合計4km

1月9日 朝より雨。ただし南風でなま暖かい。

午后ようやくやむ。
16時スタート。 川津舞の浦朝鮮人学校の下から、新しい道を幸袋へ下り、栄町、幸袋工作所前をまわって帰る。 1時間50分 6.5km

1月10日 朝雨降るも午前中に晴れる。

午後一時スタート。
井出浦、舞の浦から建花寺川岸に出て、遠賀川の合流点に向かって川土堤の道を下る。
最近、家庭雑排水による汚染著しい建花寺川の浄化設備工事が行われている。その先の川島橋を渡り、川島に至る。昔ながらの川島八幡姪子神社がある。左へ旌忠公園へ向かう。

昭和34年頃、旌忠公園の社宅から、亡きおふくろを交え、家族連れで散歩した道だ。しかしその頃と異なり道は舗装され、狭いながらも歩道が設けられている。たしかこの辺りに長女の小学校の同級生が住んでいたのではないかしらん。

立岩小学校の所で右折、測候所の下を通り、筑豊病院と嘉穂東高等学校の間の坂を下る。東高の前から市役所の方へ、今は新しい大通りが出来ているが、その手前から左へ、立岩熊野八幡への旧道を歩く。

花村さんの高見産業や泉酒造は昔のままあるが、太七郎監査役のおられた立岩麻生家のお邸は見あたらない。今は見慣れぬ教育庁、飯塚教育事務所というのがあるが、このあたりだったのだろうか。そのあたりの事を尋ねるべく、市役所前の公衆電話から松田清市さんに電話をするも外出中との奥さんの声。やむなく芳雄橋より本社前社宅を下に見ながら遠賀川の土堤を東町橋へ歩く。

昭和35年から44年までこの土堤下の社宅に住んでいた。その頃暫く隣で親しくして頂いた高山さんも昨年亡くなられた由。見れば社宅もずいぶん古ぼけたものだ。私達が住んでいたのも二昔前、無理もない。

この土堤には昔柳の木が並んでいて、当時小学生だった長男がその枝の上に板やむしろを持って「おれの棲家だ」と言って遊んでいたこともあった。

中の島で打ち上げる花火大会の花火が屋根の上に降って来たことも思い出す。そうそう、しかけ花火は川向こうの街の方に向けてしつらえられていたので、社宅の方からはいつも裏見の花火だった。

少し先の方には、福井さんが亡くなられた社宅もまだ残っているようだ。現在奥様がご長男一家とご一緒に住んでおられる折尾の家の棟上げの前夜、格別ご機嫌良くおやすみになられたのに、そのまま不帰の客となられたとお聞きしたときの驚きは未だ忘れられない。

昔は黒橋と言った粗末な木の橋だった嘉麻川橋、東町橋も今は立派なコンクリートの橋となっている。位置は昔より少し川下へ移っているようだ。三才位だった次男昌平が本社前社宅から一人髙歩きして、出入りの大場牛乳のおじさんに、この橋の上で見とがめられ、わが家に連れて来てもらった事もあった。

ボタ山と黒橋

橋を渡り、昭和通りを横切って東町商店街に入る。玉置文具店とかいぎす屋とか昔なつかしい店もあるが、表を閉ざした店もあり、なんとなくさびれた感じがする。

昔ながらの道を徳前へ抜け、昔の日鉄二瀬の本事務所の前から横田へ出、建花寺川、相田川の土堤を歩いて6時前帰宅。

歩行1万9千歩 11.5km

ramtha / 2017年9月11日