晴れ
暖かくまことに穏やかな日和である。午后1時半スタート。昨日の帰り途を逆行する。
相田川、建花寺川沿いの道を進み、二瀬橋で国道201号線を横断、さらに引き続き建花寺川の土堤を歩く。新横田橋のところで大通りに出て少し南下、次の信号機のところで右へ登る小径を歩く。
縄田病院のところで西町から花瀬へ向かう大通りを横断し坂を登ると桜ヶ丘ゴルフセンターの前に出る。その前の坂道を少し進むと国道200号線との交差点に出る。そこを渡れば東徳前。林田家に寄り水を飲んで休憩。ここまでの所要時間1時間、約4km。
小休止の後、再び歩く。
徳前大橋を渡り、穂波川に入る碇川の川岸を少し遡る。開通橋のところで左折菰田へ。
筑豊本線の踏切を渡り、三嶋神社、光妙山極楽寺の前を通り嘉麻川の土堤に上がる。昔は人通りも少ない砂利道だったが、今は舗装され立派な道路になっている。それだけに車の通行も多く煩わしい。
少し進むと狭い光樹橋が鶴三緒橋の手前にある。この橋を渡り、広い田圃の中の道を辿る。二両編成の後藤寺線下りディーゼルカーが左から右へと視界を横切る。大きく蛇行しながら続く嘉麻川の土堤は昔と変わらない。
かつてH君の恋人だったT子をこの土堤に連れ出し、諦めるよう説得したのあ40年も昔のこと。あの日も嘉麻川べりはこんな風景であったような気がする。彼女は今どうしているだろう。幸せな晩年を迎えていてほしい。
左手に下三緒の変電所が昔のままの姿である。しかし後藤寺線を跨線橋でこえる新しい道路が出来ていたり、向こうの丘の上には住宅団地が軒を並べたり、時の流れに感慨無量。
若い頃に飯塚上三緒間を幾度も歩いた狭い旧道を進む。磯松山教元寺の前を通り上三緒駅に至る。昭和20年10月この駅に降り立ったのが炭坑暮らしの始まりであった。当時は駅の正面に貯炭ポケットが並び、その底から真っ黒い雫がしたたり落ちていた。その右手の方には坑木が積み上げられ、その向こうには資材倉庫があった。今そのあたりは住宅が建ち並び、駅は無人駅となっている。
そうだ、上三緒炭鉱での実習生仲間に久留米高専出の石津某君がいた。彼は実習後ここの選炭係をしていたが、誤ってポケットに落ち込んだ選炭婦を救うべくポケットに入り、彼女を救出することは出来たが、彼自身は遂に粉炭の中から這い上がる事が出来ず殉職してしまった。
日頃は多少軽薄な感じさえする程明るかった彼の笑顔が浮かんでくる。葬儀の日、身重の躯を喪服に包んで、終始うなだれていた若き未亡人は今どうしておられることか。
40年余も前の青春の追憶に浸り、駅前にしばし立ちつくしていると、仔犬を連れた女性が右手の道から現れた。何だか見たことのあるような人だと思って見ていると、彼女も暫く私を見ていて、お互い同時に「やあ、お久しぶり」と挨拶をした。白土禮子さん(順子の昔からの友人で、ご主人は長女の小学校時代の担任)である。昔と変わらず若く美しいのに驚く。
「すぐそこに住んでいます。主人ももうすぐ帰って来るので是非お立ち寄り下さい」と誘われたが、もう4時近くなので辞退して帰途につく。来た時とほぼ同じコースを辿り、6時前帰宅。
本日歩行27,300歩 16km
ramtha / 2017年9月11日