昭和三十三年と言う年は、今から振り返って見ると、日本の石炭業界を崩壊に導いたエネルギー革命の前夜で、世の中一般もまだ高度成長に恵まれるには至っていなかった。だからセメント製造と並んで石炭採掘を経緯の柱とするわが社にも、社員採用には受験希望者が群れをなして集まって来ていた。
就職戦線は買い手市場というものの、優秀な人材をいち早く獲得しようとする企業の動きから、「青田刈り」などと言う言葉が新聞紙上に登場する時代で、わが社でも七月から八月にかけて採用試験をしていた。
事務系大卒の一次試験受験者は百名を超えるほどで、筆記試験と面接で、七~八名ぐらいに絞って二次の面接選考を行い、さらに身元調査をして採用内定者を選ぶという手続きがとられていた。
身元調査については、会社によっては人事興信所に外注するところも少なくないようであったが、中には少なからぬ調査旅費を請求しながら、調査対象者の自宅に電話して調査書を作成するような、信用できない業者があることを聞いていたので、わが社では、私と野身山君の二人で分担して行った。
その年の大卒の入社試験も二次選考が終わり、九月初め身元調査のため私は鹿児島へ向かった。まず鹿児島大学の電気科学性の内山君の生家のある市比野町を訪ねる。そこでは早場米の取入れが行なわれていたが、予想以上に鄙びたところで、農家の庭先ではお伽噺の兎の餅つきに登場する杵で、脱穀している風景が見られた。そんな農家の集落にあるたった一軒の雑貨屋を見つけ、店番のお婆ちゃんに、道を尋ねる。私の質問は通じたようだが、一生懸命親切に説明してくれるお婆ちゃんの鹿児島弁は、私にはさっぱり分からない。戦時中志布志周辺で一年ばかり過ごしたしので、大隈弁は多少聞き取れる私だが、お婆ちゃんの薩摩弁は全くのちんぷんかんぷんである。若い人にでも聞き直すより仕方が無い。
早々にお礼を言って店を出たが、お婆ちゃんは私が理解出来ないまま店を出て暫く行くと、向こうから学校帰りの子供が来ている。子供に聞けば分かるだろうと思ったが、後ろを振り返って見ると、先ほどのお婆ちゃんは、出入口に立って心配そうに私の方を見ているではないか。私は子ども達に道を聞きそびれてしまった。
訪ねる家はなんとか見つけ、目的を達することができたが、その家を辞去したときは、すでに夜の帳に覆われて、辺りは真っ暗になっていた。このあたりは外灯などは全く無く、人家もまばらで、遠くに見える市比野温泉の僅かな灯を目当てに、田圃道を歩いて行く。途中で暗闇の中から「お晩です」と挨拶する女の声に立ち止ると、突然目の前に牛を曳いて家路を辿る農婦であった。
その夜は三軒ばかりある温泉旅館のうちの一つに泊まったのだが、この温泉は農閑期にお百姓さんが湯治に来るところで、大半は自炊のお客で、食事を出すのはその一軒だけという。食事をすますと宿のおかみさんが、帳場にあるテレビをご覧になりませんかと誘ってくれた。その日の泊り客は私一人というまことに静かな温泉宿であった。
翌日は九大法学部学生の石野君の身元調査のため、まず石野君の出身校である加治木高校へ向かう。
受験者の人柄や素行などを尋ねるには、私は本人の在学中の学校より一つ前の出身校の先生に尋ねるようにしていた。大学生の場合は出身高校、高校生のときは出身中学の先生に人物評を聞くのである。というのは、在学中の学校の先生方は本人の就職に当面関与している立場から、本人の有利になるよう、その人物評は潤色される虞れがある。それに対して、一つ前の学校の先生は、卒業してその手を離れた生徒については、直接責任があるわけではないから、わりに客観的な批評が聞かれるように思われたからである。
加治木高校では幸いにして当時担任だったと言う先生に会うことが出来、いろいろと話を聞けた。次に彼の自宅へ向かうのだが、加治木のバス停の前の食堂で昼食をすますつもりであったが、そちらに向かうバスが丁度来たので飛び乗った。すでに午後一時を回っていたので、腹もすいていたが、田舎のバスは一度逃すと次は汝のことになるか分からない。バスを降りる停留所でも、うどん屋の一軒ぐらいあるだろう。そう思いながらバスに揺られていると、バスは次第に人家もまばらな山道へと登って行く。やがて高校の先生に教えられた「石野」というバス停に着く。
バスから降り立ってまわりを見回してみたが、うどん屋はおろか、バス停の標識のほかは何も無い。えらいところに来たもんだ。これでは昼食抜きを覚悟するほかはない。空き腹を抱えて、石野君の家があるとおぼしき方へ坂道を登る。シラス台地をくり抜いたトンネルをくぐって台地に上がると、南に桜島を望む薩摩藷畑が広がっている。北へ向かう道の先には、防風林に囲まれた農家が何軒かあるようだ。
右手の藷畑で藷掘りをしている老夫婦に、「石野さんのお宅はどちらでしょうか。」とたずねる。「石野の誰でしょうか。」と聞き返される。後で知ったことだが、ここは字名も石野、バス停も石野なら、集落全部が石野姓、いうなれば石野一族の村である。
私が「石野正聰君ですが。」と言い直した途端、担いでいた天秤棒を投げ出して、老夫婦は土下座せんばかりの姿勢をとり、「麻生産業の方ですか、分家の正聰をよろしくお願いします。」と頭を下げられる。予期せぬことで私は度肝を抜かれる思いをしたが、この小さな集落では、石野君がわが社を受験し、二次選考に残っており、会社から身元調査に来ることは、周知のことであったようである。
老夫婦の話しでは、石野君一家の皆さんは、今日は稲刈りのため、ずっと下の方の田圃に行っているとのこと。先ほどえらい思いをして登ってきた道を後戻る。教えられた田圃まで来てみると、ご両親、兄さん夫婦、その子どもさんまで、忙しそうに働いている。名刺を差しだして挨拶をすると、田圃の隅に作られている藁葺の小屋に案内された。
石野君の身上調書では、お父さんは戦時中に海軍の特進将校であったということだったが、野良着姿ながら茣蓙の上に端座された姿には古武士の風格が漂っていた。
改めて挨拶を交わし、話しを始めたら、お父さんは、「昨日正聰から手紙がきて、麻生と西鉄の両方二次試験に合格したようだが、どちらにしたらよかろうかと言ってきたところです。」と言われる。
石野君はその年の受験者の中でも、是非入社して貰いたい一人で、この日の身元調査に特段のことがなければ、会社としては採用を内定するつもりであった。しかし、彼がわが社のほかに西鉄を受験し、そちらもほぼ合格というのは、初めて耳にしたことで、私は内心驚くとともに西鉄が相手では勝負にならないと思ったことだった。
しかし、はるばるここまで足を運んだのだ。するだけのことはしなくてはと、ややもすれば落ち込む心を奮い起こして、「私は麻生以外の企業に勤めたことは無いから、よそのことは分からないが、私の知っている麻生はこんな会社です。」とわが社の規模や社風についてご両親に説明した。
私の説明を黙って聞いておられたお父さんは、私の話が一段落すると、やおら頭を挙げて「決めました。正聰には貴方の会社へ就職するようにさせます。」と言われる。私がびっくりすると同時に内心胸をなで下ろす思いをしたが、「わが社としては、それは嬉しいことですが、男の就職は女の嫁入りと同様一生の大事です。西鉄の内情はよく知りませんが、わが社より大きな名の通った会社です。だから今ここでお決めにならず、正聰さんとよく話し合われてからにされは如何ですか。」と述べた。
それに対して、お父さんは「私は今までどちらの会社もよく知りませんでした。しかし、今日貴方がおいでになられ、お話を伺ったので、麻生のことは良くわかりました。また、貴方という知人が出来ました。西鉄の方は誰もおいでになりませんから知った人はいません。一人でも知った人がおられる会社の方が、安心して正聰を託することが出来ます。」と言われる。有難い話ではあるが、私にかかる責任も重いことである。そこで重ねて親子で良く相談されることを勧めたが、お父さんの気持ちは変わらなかった。
あれから四十年の歳月が流れた。石野正聰君は今日、麻生セメント㈱の副社長として、麻生泰社長を補佐し、麻生グループの指揮を執っている。
(平成九年十二月)