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第二十話「悪筆の嘆き」

人間にどうして器用、不器用があるのだろう。生来不器用な私は、小学校の頃から習字や図画、手工の時間がめぐってくる度に、身の不運を嘆いたものである。親を恨もうにも、父親は習字の専門家ではなかったが、西南女学院の教師(理科、数学の担任)時代に習字の選任教師が欠員の折、ピンチヒッターを務めたぐらいであったし、母も能筆というのではなかったが、小学校の教壇に立った人で、それなりの字を書いていた。にも拘わらず、その子の私は自分でも嫌になる程、救い難い悪筆であった。
私が通った明治小学校では、毎年冬休みの宿題に、「書き初め」があり、三学期に入ると、全員の作品が教室に貼り出されるのが、恒例となっていた。私の作品は家で書き上げたとき、既に自ら嫌悪感に駆られているのに、級友の見事な作品と並べて展示されてみると、ひとしお惨めで、許されることなら、すぐにも引き破ってしまいたい衝動が突き上げてくる。ところが学校という所はなんと意地悪なところだろう。その展示は二週間以上も続けられ、その間習字の得意な生徒は、幾たびも満足げに自分の作品を眺め、その後哀れな姿をさらしている私の作品に目をやると、こちらの僻目か、口元に冷笑すら浮かべているではないか。毎年そんな屈辱感にさいなまれながらも、一向に習字に励もうとしなかった。こんなことでは悪筆のなおる筈はなく、中学に入ってからも習字の時間は、針のムシロに座らされている思いであった。


中学生ともなると、能筆、悪筆の個人差はさらに甚だしく、当時私の隣にいた永田郁也君の書などは見事なもので、私は横から盗み見するだけで、胸苦しくなる程の威圧感を受けたものである。逆に自分の哀れな字を彼から見られぬよう左手で隠しながら習字をする始末。これでは習字の基本である姿勢が崩れ、良い字が書ける筈もない。
当時は今のように物の豊かな時代ではなく、普段の練習の時は、一枚の半紙の上に、なんべんでも書き、真っ黒になるまで使うのを常としていた。そこで習字の時間は、墨の空磨りなどして、出来るだけ時間をつぶし、後はなるべく早く紙を真っ黒に塗りつぶして、傍から見られても、どんな字か判別出来ないようにする。その真っ黒な紙の上で筆を遊ばせ、習字の時間の終わるのをひたすら待っていた。
ある日、例によって真っ黒に塗りつぶした紙の上で筆を動かしていたら、岡島先生が私の席まで巡回してきて、「佐藤よ、紙の節約もいいが、時には紙を取り替えろよ。これじゃ折角のお前の見事な筆跡も、さっぱり見えんじゃないか。」と皮肉を言われ、私はただただ赤面するのみであった。


このように筆墨による習字は特に苦手であったが、ペンや鉛筆によるノートの字も、いわゆるミミズが這ったような字で、他人はおろか、後日自分でも判別できなくなるような、情けない字であった。それが何の因果か、西部四十六部隊の初年兵の時、連隊本部の事務室勤務を命ぜられた。今から考えてみると、当時私の属していた九中隊の隊付き先任将校に、小倉中学で剣道を教えて頂いた片山先生(先生は杭州湾上陸の折、日本刀で敵兵と共に機銃の銃身を一刀両断にしたと言う武勇伝があり、すでに金鵄勲章を持つ古参中尉で、中隊長も一目おく存在であった)がおられ、中学の時から知っている、ひ弱な私に配慮された人事であったかと思われる。さもなければ、いくら学徒兵といっても私ほどの悪筆が事務室勤務にされることは無かったろう。
事務室勤務と言っても、はじめは連隊本部での雑用をさせられていたが、昭和十九年七月、南九州防衛のため積兵団が編制されることになり私は積二部隊の連隊本部功績係に配属された。功績係は船越准尉を長とし、松尾伍長、吉積兵長と当時一等兵であった私の四人であったが、連隊全員の功績名簿の保管、整理、記録がその主な業務で、専ら字を書き書類を整理する毎日であった。
船越准尉は現役志願から准尉まで昇進した職業軍人であったが、松尾伍長は商業学校を出ており、銀行員が本職であった。また吉積兵長は中央大学出で、サラリーマンの応召者であった。いずれも事務室勤務となるだけに、なかなかの能筆であった。その中で悪筆の私は、毎日肩身の狭い思いをしながら、仕事をしなければならなかった。しかし、船越准尉をはじめ、みんな温厚な人柄で、私のような者をよくかばい、可愛がって頂いた。
ある日、例によって、ミミズが這いずりまわったような字を書いていると、さすがに見るに見かねてか、松尾伍長が「佐藤さん、(軍隊では、下級者に対しては呼び捨てなのだが、彼は事務室の中では下級者にも「さん」付けで呼んでいた)字の上手下手は、ある程度天分のもので、どうしようもないが、事務での字は芸術ではないから上手である必要はない。誰が見ても、はっきり分かる事が肝心だ。だから字を続けずに、一字一字楷書で書くようにしなさい。下手な人ほど字を崩して書きたがるが、ごまかしていては上達できないよ。」と諭された。とかく変なくずし方で、何とか下手な字をごまかそうとしていた私は、穴に入りたいような恥ずかしい思いをしたが、まことにありがたい教訓であった。
それから多少時間がかかっても、楷書で書くように努めることとした。また、それを脇で見ていた吉積兵長は、後で二人きりになった時、松尾伍長の指摘で私が余程落ち込んでいると思ったのか、「佐藤君よ(彼は君付けで呼んでくれていた)松尾班長の言われるとおりだ。楷書で書くようにしたら、君もきっと上手くなるよ」と励ましてくれるとともに、「上手な人の字を見ることも勉強になるものだ。幸い我々には松尾班長という立派なお手本が身近にあるのだから。」と教えてくれた。成る程そう言われて松尾班長の字を見てみると、今まで自分が丁寧に書いても、不格好な形にしかならない字を、実に美しく釣り合いのとれた字にしている。自分の字と比べてみると、長く伸ばすべきところ、一画一画の間隔の取り方、曲線の曲げ具合、撥ねるべきところの撥ね具合など、随分違いがあることが分かってきた。


しかし長年にわたって凝り固まった悪筆は一朝一夕に直る筈もなく、麻生に入社してからも、常にきれいな字を書くまわりの人が羨ましくてならなかった。ことに吉隈炭坑の労務係のときは、係長の小樋さんや、事務を共にした久保純男君などの筆跡は、まことに見事なものであった。その頃久保君が一日病気欠勤した日に、私が彼の事務を代行し、日頃彼が記入している帳簿に、私の拙い字で記入したことがある。私としてみれば、見事な彼の筆跡が並ぶ横に記入するのだから、精一杯丁寧に書いたつもりである。しかし字の優劣は掩い難く、誰が見ても見苦しい一ページであることは明白であった。翌日出勤してきた彼は、その帳簿をひろがた途端、無言のままピリピリとそのページを破り捨て、一ページまるまる書き直したことであった。私は日頃から、神経質なまでに美意識の強い彼の性格を心得ていたので、腹が立つよりも、それほどまでに筆跡に厳しい彼の感覚に心密かに敬意を払ったものである。しかし係長や久保君の字は、もはや素人放れした能筆家の字で、ただ何とか字体を整える事に汲々とする私ごときが真似しても、真似し得るものではなかった。
そのことがあって以来、暫く忘れていた松尾班長の教訓を思い出し、再び楷書書きを心がけるようにした。その後本社の文書課に席を置くこととなったとき、当時その見事な筆で、人事辞令などを書いていた広津ウメ女史が「佐藤さん、あなたは字が下手だと言っているが、あなたの字はとても素直で分かりやすい字よ」とおだててくれた事がある。彼女はかつて小学校の先生をしたこともあってか、「小学校の教科書をお手本にするといいわ」ともアドバイスしてくれた。ちょうど長女が小学校に通っている時でもあったので、早速家で子どもの教科書を開いてみると、平仮名の書き方などについて、なんとなく会得するものがあるようなきがしてきた。それからは仕事の上で字を書くときも、手紙などを書くときも時間の許す限り、ペン習字のつもりで書くように心がけてきた。


「至愚は移すべからず」と孔子も宣われたとか聞くが、悪筆も移すべからずで、私の字は未だに拙劣の域を出ないが、一生懸命ていねいに書けば、なんとか他人様に読んで頂ける字が書けるようになったのは、私を諭し、励まして頂いた松尾班長をはじめとする多くの方のおかげであると深く感謝している。しかし、やはり悪筆は移すべからずで、今もつい走り書きをするとミミズの歩みになってしまうのは、まことに情けない限りである。
いまやこうしてワープロに頼り、心おきなく走り書きも許されるのに、今度はキーを叩く自分の指が思うに任せぬとは、まことに皮肉なことである。(平成二年)

⇒第二十一話「百人一首」

ramtha / 2011年4月10日