思想家ケン・ウィルバーは、私達が知らず知らずの内に作り上げる「境界」に注目し、その境界線で生じる葛藤によって、心理的な症状が生まれてくるとしている。そして、その境界のレベルや作り方は人それぞれで、境界が生じたレベルに応じた心理療法について次のように述べている。
「対立」
なぜ、人生はすべて対立からなっているのか、疑問に思ったことがあるだろうか。なぜ、たいせつなものはすべて一対の対立なのだろうか?なぜ、欲求は対立に基づいているのだろうか?「善対悪」「苦対楽」「神対悪魔」「生対死」「自由対束縛」
この事実はあまりにありふれているため、わざわざ口にする必要のないものである。だが、考えれば考えるほど、これは驚くほど奇妙な事である。なぜなら、人が住むこの対立の世界を自然はまったく知らないようだからだ。自然は、正しい海と間違った海を生みだす事はなく、貞淑な木とみだらな木を生むわけでも、道徳的な山と非道徳的な山があるわけでもない。自然は正誤の対立を知らず、人間だけが「まちがい」と思っているような事を自然は認知しない。
人間世界にあるこの対立はあるものとあるものとの間に境界線を引くことによって生まれてくる。
決断を下すというのは、何を選び何を選ばないかの間に境界線を引くことである。何かを欲するというのは、楽しいものと苦痛なものに境界線を引き、前者を求める事である。法律を適用するということは、社会の規則に従う人と従わない人との間に境界線を引くことである。ちょっとした出来事から一大危機、ささいな意志決定から一大決心、ちょっとした好みから燃え上がるような情熱・・われわれの生活が、さまざまな境界を設けるプロセスであることは明らかである。
しかしあらゆる境界線は、また潜在的な戦線であり、境界を設けることは争いの準備である。死に対する生、苦痛に対する快楽、悪に対する善・・・これらは相対立する戦いである。
われわれが争いと対立の世界に棲んでいるのは、われわれが境界の世界に住んでいるからである。すべtの境界が同時に戦線だという所に、人間のおかれた苦しい立場がある。境界が強化されればされるほど、戦いは苦境に陥る。善を追求すればするほど、悪に対する強迫観念が強まる。成功を求めれば求めるほど、失敗を恐怖する。快楽に執着すればするほど、さらに苦痛を恐れる。何かに価値を見いだせば見いだすほど、その喪失が怖くなる。生に執着すればするほど、死はより恐ろしいものになってくる。
つまりわれわれが抱えている問題の大半は、境界とそれが生み出す対立の問題なのだ。
私たちの多くは心と身体の間に境界を設けているが、誕生の時には存在しなかったものである。しかし、成長と共に自己/非自己の境界を設け、それが強化し始めると、自分の身体に対しても入り混じった感情を抱くようになる。
身体は自己の境界の内側に直接入れてしまって良いのだろうか?どこに境界線を引いたらよいのだろうか?
身体は一方では楽しみや快楽の源となり、ご馳走の味や日没の美しさを感じ、エロティックなエクスタシーも感じる。もう一方身体は痛みや、病による衰弱、ガンの苦しみや恐怖や、他人とのいさかいや苦痛の源でもある。
大人になる頃にはほとんどの人が、自己/非自己の境界が固定されたときには、完全な外側ではないが。身体は確実に異質な領域に置かれている。心と身体の間に境界が設けられ、心にのみアイデンテティティを持ち、自分は頭の中に住んでいるかのように感じるようにさえなる。要するに自分のアイデンティティと感じているものが、自分の有機体全体を包括せず、「自我」と呼ばれる有機体の一つの局面だけに限られてしまうのである。
こうして自分を「自我」と感じるようになり、身体は自分に従うものに過ぎなくなってしまう。
もちろんこの自己/非自己はきわめて柔軟なもので、さまざまなタイプや境界のあり方がある。
自己/非自己の境界を、自我的傾向の特定の部分までせばめてしまう時もあり、このせばめられた自己イメージを仮面(ペルソナ)と呼ぶ。そして魂の特定の局面だけにアイデンティティを持つようになってくると、残りの部分を異質な領域、相容れない恐ろしい非自己と感じるようになる。その為、魂の地図を作り直して、自分自身の好ましくない局面(影と呼ばれる)を意識から追い出し、否定しようとする。
この自己/非自己の境界で重要なのは、アイデンティティは一つではなく数多くのレベルがあるということである。これをおもなレベルに配置すると①統一意識(境界がない状態・自分と宇宙が一体)
②全有機体/環境 ③自我/身体 ④ペルソナ/影となり、統一意識からペルソナに向かうにつれて、アイデンティティがせばめられて行く。
このさまざまレベルはアイデンティティの違いを表しているだけではなく、アイデンティティに関連した様々な特徴も表している点が重要である。
たとえば誰もが抱いている「自己相克」という問題を考えてみよう。自己の境界線が異なった引かれ方をされるのだから、自己にさまざまなレベルが生じ、当然「自己相克」にもさまざまなレベルが生じる。軍事専門家が誰でも知っているように、「境界線」は「戦線」になる可能性が秘められている。境界線が領域を、戦いの可能性を秘めた二つの領域に分けてしまうからである。
たとえば有機体全体のレベルにいる人は、環境を敵になる可能性を秘めたものと見る。環境が異質で外的なものに見えるために、生命と健康が脅かされるからである。
自我レベルにいるひとは、環境だけでなく、自分のからだも同様に異質な領域と見る。つまりからだも敵になる可能性が生じるのである。
この戦線はペルソナレベルできわめて顕著なものとなる。
自らの魂の諸局面の間に境界線を引いてしまったために、仮面としての自分対環境、仮面としての自分対からだ、仮面としての自分対頭の諸側面など多くの戦線が生じる。
つまり自らの魂に境界を設けると同時に、魂の戦いが生じるのである。あらゆる境界線は戦線でもあり、個々のレベルから異なった症状が発生してくる事になる。従って、心理療法はどのレベルで戦いが起きているかによって使い分けられなければならない。
①統一意識レベル:ヴェーダーンタ、大乗仏教、秘教的キリスト教、秘教的回教、秘教的ユダヤ教
②有機体レベル:ゲシュタルト・セラピー、実存分析、人間性心理学など ③自我レベル:精神分析、サイコドラマ、交流分析、自我心理学など
④ペルソナレベル:カウンセリング、支持療法
「仮面レベル/発見の始まり」
私たちは何らかの情動や傾向を影として投影すると、もはやそれを歪んだ幻想的な形でしか知覚しなくなる。
内にある情動や傾向が外から来るもののように見えるのだ。
自分の敵意を他人に投影すると、人が自分に対して敵意を抱いていると思いこみ、人に対して恐怖を抱くようになる。
つまり自分の中にある敵意は見えなくなり、他人の中で見えるようになり、自分自身の中では「恐怖という症状」としてしか感じないのである。
自らの影が症状になってしまったのだ。自分自身のある側面を自覚していないことを知らせる、嫌な症状が残るのである。自分自身の傾向を否定しようとすると(影)、それらの傾向は症状として表れてくる。
個々の症状(落ち込み、不安、倦怠、恐怖など)には、投影された情動、特性、特徴のような影の側面が含まれているのである。
さらに、影が症状になってしまうと、これまで影と戦ってきたようにその症状と戦うようになる。その症状を嫌い、さらに自分の症状を他人からも隠そうするのだ。
重要なのは、いかに不快であっても、症状に抵抗したり、避けようとしたりしてはならないことである。そこにはそれを解消する鍵が含まれているからである。症状と闘うことは、その症状に含まれている影と戦う事であり、それこそまさに、最初にその問題を生んだ原因だからだ。
このレベルにおけるセラピーの第一歩は、症状を受け容れ、余裕を与え、それまで嫌がっていた症状と呼ばれる不快感に親しむ事である。自覚を持って症状にふれ、できる限り心を開いて受け容れる事である。これは自分自身が落ち込んだり、不安になったり、拒絶されたり、傷ついたり、困惑したりすることを許してやる事を意味する。
これが、セラピーの第一歩であり、多くの場合これで充分である。症状を本当に受け容れたとたん、その症状に隠されている影の大部分もまた受け容れるからである。そうなると問題は消え去っていく。
ramtha / 2011年5月5日