終戦後復員して来た若手社員を集めて行われた上三緒炭坑での実習が終わり、昭和二十一年六月、事務・技術それぞれの学歴技能に応じて職場配置が行われた。
何ら特技を持たない私が配置されたのは、本社企画室事務課であった。
実務についたと言うものの、私に課せられた仕事は、新聞の切り抜きや資料の整理といった簡単な事務で、一緒に配置された実習仲間の清水君などと雑談を交わしながらのまことに暢気な毎日であった。
その頃飯塚病院の皮膚科の医長で、お名前は忘れてしまったが、アララギにもしばしば登場する短歌に堪能な先生がおられた。この先生の指導される短歌会が本社前のクラブで毎週催されていた。
まだ自分に詩才の無いことなど自覚していなかった私も人に誘われて参加していた。
会員は病院研究課の向井先生や本社労務課の木庭先輩をはじめ本社勤務社員など、毎回十四~五人ばかり集まっていた。
女性も三~四人参加して居たが、その中に毎回出席する小林さんという女性が居た。昼間は生産部で事務をして居たが、会話を交わしたこともなく、まだ独身だろうぐらいに思って居た。
会社は戦時中、軍の要請に応えてボルネオ・セレベスなどの炭鉱開発に多数の社員を派遣していたという。
戦後入社の私は知らなかったが、南十字星を仰ぎ帰国の日を心待ちにする夫の姿を偲ぶ短歌で、小林さんのご主人も南方派遣社員の一人であることを知った。
その後耳にしたところでは、ご主人はきわめて明るい人柄の建築技師とか。本社裏の社宅にはご主人の母親と計算課に勤務する弟と三人で留守を守っているとのこと。
結婚して間も無くのことでまだ子供にも恵まれず、気丈な姑と義弟の三人暮らしでは、ことさらにご主人の帰国を心待ちにしておられることが、歌会で聞く彼女の詠(うた)から窺われた。
あれは翌年(昭和二十二年)のことだったと思うが、南方派遣社員の内、麻生五郎重役をはじめ城戸義雄さんら幹部職員数名が帰国した。小林さんのご主人他、大半の社員はなお残留を余儀なくされているとのこと。
聞くところによると、現地では敗戦後の故国のことが案じられ、ことに戦時中、軍に協力した会社が戦後どんな状態になっているか分からない。会社の存続復興のために、麻生五郎重役はじめ幹部職員の早期帰国を、全員で占領軍に嘆願した結果実現したとか。
そういう事情もあってか、帰国した城戸さんが残留者の留守宅を廻って、現地の状況を知らせておられるという話を耳にした。
帰国の噂が囁かれた当初は、あるいはとの期待で心ときめくこともあったであろうにと思うと、小林夫人の落胆はいかばかりかと、他人ごとながら気にかかっていた。
その後間もなく短歌会で小林夫人の姿を見なくなった。
さらに二月ばかりして、彼女は実家に戻られたという話を耳にし、びっくりした。中には本人の意思ではなく、お姑さんから離縁を申し渡されたのだという噂もある。
ご主人の留守中に離縁など、そんなことは常識では有り得ないことではないか。何か余程のことがあったのではと思われたが、若造の私には想像もつかない。
世事に通じていそうな何人かの先輩に尋ねてみたが、いずれも口を噤(つぐ)んで語らない。しばらくは気にかかっていたが、時間の経過とともに、それも私の関心の圏外に消えて行った。
※ ※ ※
帰国された麻生五郎重役は企画室長に、城戸さんは企画室技術課長に就任され、会社の技術部門は城戸さんが統括し、麻生五郎重役はその報告をうけ承認決済する慣習となっていたようだった。
また麻生五郎重役はなんとなく城戸さんに遠慮されているように思われることもあり、城戸さんの言動は日を追って傍若無人の様子が目につくように感じたこともあった。
後日、麻生一門の内情を知る野見山芳久君から次のような話を聞かされた。
麻生五郎重役には長男摂郎・長女孝・次男忠二と三人のお子さんがおられた。摂郎さんが九州大学工学部在学中の昭和十八年十二月、文系学生の徴兵延期が撤廃され、いわゆる学徒出陣で多くの学友が参戦することとなった。
それを目にした摂郎さんは尽忠報国の志止みがたく、自ら学業を放棄海軍志願を決意された。
前年のミッドウェイ海戦以来、ガダルカナル島撤退・連合艦隊司令長官山本元帥の戦死と急速に戦況の傾くとき、お父さんは南方にあり、弟忠二もいずれは参戦を覚悟しなければならないとすれば、自分たちが出征した後の留守宅は母と妹の女世帯となってしまい心許ない。 そこで急遽妹の孝さんに婿養子を迎えることとされたらしい。
本来ならお父さんと連絡相談されたところであろうが、戦争末期の音信不通の状況ではそれも叶わず、独断でことを運ばれたものと思われる。
そのとき入り婿として迎えられたのが、後日九大教授となられた麻生欣二郎さんである。
終戦後忠二さんは、無事復員、大学に戻られたが、摂郎さんは特攻隊を志願、太平洋上で散華、還らぬ人となられたという。
南方赴任中の麻生五郎重役は、我が社随一の俊才城戸さんをわが娘の配偶者にと考えておられたようで、そのお気持ちは日夜行動を共にする城戸さんにも伝わり、城戸さんもその気になっておられたらしい。
ところが戦後帰国したら、すでに前述のような次第で、結果として城戸さんを裏切ることとなったという。正に誰を恨みようもない戦争による惨劇である。
※ ※ ※
城戸さんは、その後間も無く直鞍の名家滝山家の令嬢と結婚された。
何時のことだったか、高井敏夫さんと二人で飯塚の街中を歩いていたら、偶然城戸さん夫婦とすれ違った。
初めて見る城戸夫人はまだ童顔の残るお嬢さんで、三十過ぎの城戸さんとは、他人ごとながら、いかにも不釣合なカップルではと感じたことを記憶している。
あれは何時のことだったか定かではないが、本社経理課に途中入社と思われる小柄な社員が居るのを見かけた。
経理の友人に尋ねたら、三井物産㈱を退社してきた九大出の秀才で、名前は滝山君というとのこと。
「三井物産㈱のような一流会社からどうしてわが社などに?」と疑問になったが、友人は声をひそめて「彼は城戸さんの奥さんの兄さんで、城戸さんの勧めで来たらしい」と聞かせてくれた。
それで入社の経緯は分かったが、なお腑に落ちないものを感じたものの、労務畑の私には無関係な他人事で、間も無く忘れてしまった。
昭和二十四年吉隈炭鉱に転勤した私は、本社の事とは疎遠な日々を過ごしていたが、久しぶりに訪ねてきた高井君から意外な話を耳にした。
それによると城戸さんは奥さんと離婚し、別の女性と結婚しているという。私は前の奥さんを見たのは一度だけであったが、そのときの不釣合いな印象が的中したなという感じが頭を過(よぎ)ったが、同時に、他人の不幸を言い当てたような後味の悪い自己嫌悪に、苦い思いをさせられた。
それにしても、すぐ再婚した城戸さんは別として、実家に戻られた奥さんはどんな思いをされているだろうかとは思ったが、所詮は他人事、これまたすぐに忘れてしまった。
次に伝わってきた噂では、城戸さんは再婚した奥さんと広畑の社宅で暮らしているが、別に妾宅も構え二号さんを住まわせているという。
その頃わが家では、家内が一家四人の生計の遣り繰りに毎月苦心をしているというのに、城戸さんは我が社のお偉いさんとはいうものの、サラリーマンの収入でどうやっているのだろうと不思議に思ったことだった。
英雄色を好むとは古今東西を問わないようだが、一夫一婦が常識の今日では、浮気は男の甲斐性と言っても、他人には知られぬようにするものだが、この頃になると城戸さんは私生活でも傍若無人を押し通して恥じるところがないという。
広畑社宅で城戸さんの家と近くに住む野見山君がある日、こんな話を聞かせてくれた。
家が近く野見山君の長男も城戸さんの長男の学齢前の同年でもあり、一緒に遊ぶことも多い。その長男から、
「城戸君ちはお母さんが二人いて、それぞれお小遣をくれるんだって。いいよね。僕んちはどうしてお母さんが一人なの?」
と聞かれ、野見山君の奥さんは、一瞬戸惑つたが、
「城戸さんのお家は、お父さんが会社で、とっても偉い人だから。うちのお父さんはまだそんなに偉くないからよ・・・」と答えたという。
それはこの上無い名答だったねと二人で大笑いしたことであった。