文書課長の頭を悩ます仕事の一つに人事異動がある。麻生産業の職制では、文書課は重役室に直属し、他の課のように中間に部長が居るわけではない。世間一般の会社では、他の部長と対等の人事部長が居るようである。ところがわが社では、職員人事を担当する文書課長は、職制上、本社の各部長より一ランク下に位置している。また役付き手当の金額では、事業所長や支店長と同等であるが、現にその職務にある人々の資格や本俸と比較してみると、明らかに下である。
職員の人事異動に当たっては、送りだし、受け入れ双方の部長・所長・支店長と言った人々と折衝し、その同意をとりつけなくてはならないが、文書課長としては、常に自分より序列の上の先輩を相手にして、話を進めなくてはならないわけである。
人事異動では、①単に職員Aを甲事業所から乙事業所へ転勤させる場合、②甲事業所の職員Aと乙事業所の職員Bとを相互に交換転勤させる場合、③いくつもの事業所間で何人もの職員が転勤移動する場合など、いくつものケースがあるが、いずれにしても、同一事業所内での移動以外は、関係する所属長が二人以上あるわけで、そのそれぞれの了解を得なければならない。
人事異動の場合、関係するすべての所属長が、即座に賛成するケースは稀である。優秀な職員の場合は受け入れ側の長は大歓迎で問題無いが、送り出す側の了解を得るのは難しい。逆に、成績の振るわない職員は、送り出す側に異論はないが、受け入れ側がなかなか納得しない。
文書課長は両者の間に立って、なんとか双方を納得させなければ、人事異動は成り立たない。
優秀な職員の送り出しをしぶる所属長には、本人の将来昇進のために必要なことを説いて、大乗的見地から賛同することを懇願したり、いずれ別の人事で埋め合わせをすることを仄めかしたりして説得する。
受け入れに難色を示す場合は、当該職員の隠れた長所や才能を数え上げて弁護したり、貴方にその職員の教育や養成をして貰うための異動であるとそのプライドをくすぐりなどして、納得して貰うよう努める。
それでも了解して貰えそうにないときは、はなはだ邪道ではあるが、社長直属の職制を利用して、重役室の意向をちらつかせて、なんとか承認を取り付けたりする。
今から考えてみると、若気のいたりとは言いながら、ずいぶん厚かましいことをしてきたものである。
しかし、そんな手練手管を使わざるを得なかったのは、前述したように、人事担当者が一介の課長にすぎず、折衝相手が総て先輩上司であったためである。
わが社の歴代文書課長は、私同様の苦心をしてきたことと思われるが、会社としては、あのシステムはやはり最善の制度であったように思われる。なんとなれば、関係する所属長の皆さんは、最後は意に反する人事を了解させられたにしろ、相手が後輩の一課長にすぎないから、人事に対する異論も不満も、言いたい放題に言うことが出来たことと思われるからである。言い換えれば、人事に対する不満のガス抜きが無理なく行なわれていたと言えるわけである。
また、人事異動で気を遣ったのは、誰から話し始めるかと言うことである。事業所間の異動であれば、送りだし(A)、受け入れ(B)の、それぞれの所属長二人の了解を得なければならない。この場合A、Bいずれの長から話を始めるかである。どちらかが言い出したことであれば、相手方の了解を得れば済むことだから問題はない。ところが全社的人事計画にもとづく場合などは、双方ともに初耳のことである。
人事に関することは秘密が守られねばならないことは、常識ではあるが、また人事に関することほど、秘密が洩れやすいことも事実である。
私が関係所属長の一人(A)に話を持ちかけ、その了解を取り付け、次に相手方(B)に了解を求めに訪れたとき、既に話は洩れていて、彼(B)はいたく臍を曲げているのに出会ったことがある。秘密が守られるべき人事が洩れたこともさることながら、自分への相談が後回しにされたことに、いたくプライドを傷つけられたということのようである。そのときの人事は、彼(B)にとつては、むしろ望ましい内容の人事であったから、最終的には了承を得たものの、そこに到達するのにずいぶん苦労させられた。
関係する所属長に同時に話しかけることが出来れば、どちらが先などと文句がつくことも無いのだが、別々に相談を持ちかける以上、物理的に不可能なことである。
こうしたトラブルには何度か遭遇したが、その経験から私は、口の固いと思われる方から話を切り出すこともさることながら、その人事に異論のありそうな方から先に持ちかけることとした。説得が不成功に終わった場合、その話は無かったことにできるが、先に一方の了承を取り付けてからでは、後戻りが出来ないからである。
しかし、当事者双方が手ごわいときなど、ずいぶん苦心したことだった。
何時の世でも、サラリーマンにとって、人事は重大関心事である。だから人事異動の関係者から話が洩れなくても、大方の社員の憶測から流れた噂が、確信を衝くことも少なくない。そうした無責任な私設辞令があまりにも公然と流布されたため、発令を暫し見送らざるを得なかった苦い経験もあった。
組合員の異動については、事前に職員組合の幹部に通知し、その了解をとることが慣習とされていた。それは一見会社の人事権に対する組合のいらざる干渉のようにも思われるが、人事異動発令後に不測のトラブルの生じることを避けるための措置で、会社の示した異動に組合が異議をとなえるなどということは一度もなかった。
それは、会社としては、正当な理由のある公平な人事異動を心がけたことはいうまでもないが、組合も良識をもってこれに応えてくれたことによる。
「綸言汗の如し」と言われるが、会社の人事の権威と組織の秩序を守るためには、一旦社長の名のもとに発令された人事異動を、撤回するようなことは絶対に避けなくてはならない。そのために、関係所属長の同意とともに、組合幹部の了承を得る手順を踏むこととしたものである。
ところが、これほどの念を入れてなお、発令後に組合から人事異動の手直しを求められたことが、私の在任中一度だけあった。
あるとき、佐賀県の久原炭坑の電気技術者に欠員が生じたので、田川工場から藤井大八(仮名)君という職組を転勤させることとし、本社生産部長、田川工場長並びに久原炭坑長の了解を得、いつものように職員組合の事務局長にも事前通知をして、異存のないのを確認して発令した。
ところがその翌日、職員の大庭事務局長が飛んで来て、藤井君の転勤は取り消して貰えませんかと言う。
理由を尋ねてみると、藤井君は先年、奥さんが病死し、小学校五年生の女の子を抱え、家事と娘の世話に困っていたが、今年世話する人があって、幸いにして後妻を迎えることが出来、これで仕事に専念できると喜んでいたらしい。
ところが、思春期にさしかかる娘と後妻の間がうまくいかず、ほとほと困惑しているのが実情であると言う。
大庭君もそういう事情を本人から聞くまで知らなかったが、久原炭坑への転勤ということになると、久原での社宅が見つかるまでの間、単身赴任しなければならないことになる。日常ものも言わない娘と妻との二人を残しては、とても仕事をする気にもならない。そういう事情だから、なんとかこの人事異動は取り消して貰いたいと言うのである。
聞いてみれば、まことに同情すべき家庭事情ではあるが、すでに発令済みのことである。いまさら取り消すわけにはいかないことは、組合幹部の君も承知のことではないかと言ってみたものの、問題の解決にはならない。
そうした職員の家庭の事情を、かねて十分承知しておくのが人事担当者の仕事ではないか。今となっては自分の手抜かりが悔やまれるだけである。
そこで久原炭坑の坑長に、藤井君の赴任と同時に社宅へ入居できるようにして貰いたいと電話した。しかし、久原炭坑の職員社宅は、入居希望者が順番待ちをしている状況で、横番切って藤井君を入居させるわけにはいかないとのこと。
当時、社宅の入居については、炭坑の総務課と職組の幹部で構成する社宅委員会で協議決定されていたが、その委員会の承認も求めなければならない。
委員会に事情を説明して、特別扱いして貰うという方法も考えられないことではないが、それでは藤井君の家庭の事情が知れ渡ることになる。藤井君のプライバシーを守り、即日入居させるには、炭坑長と職組の支部幹部に、無理矢理鵜呑みして貰うほかない。
炭坑長は私が納得させるから、久原支部長は君が納得させなさいと言い、大庭君に久原へ飛んでもらった。
坑長、支部長をはじめ関係者が、われわれ二人を信頼して、無条件に藤井君の即刻入居を認めてくれたお陰で、この転勤はなんとか無事に実現した。しかし、私にとっては、あらためて人事の怖さを知らされた事件であった。
(平成十年一月)
ramtha / 2015年8月27日