筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「故人を偲ぶ」

「平成二十六年七月二十九日」

今日は土用の丑の日とか、私の生まれた大正十一年もこんな暑い日であったとか、真夏のお産で苦労した亡母からしばしば聞かされたことである。その後さまざまな病に悩まされながらも、不思議に生き長らえて九十二歳の誕生日を迎えることとなった。 足腰が衰え外出もままならぬ体となり、何ら世に益することもなく、ひたすら年金を頼りにする身では、誕生日といっても、素直に喜ぶ気持ちにはなれない。しかし、まだ身の回りのことは、他人の手を借りることなく、なんとか過ごさせて貰っている。

それを思うと、亡き両親はもとより、その都度お世話になった病院の先生・看護婦さんはじめ多くの方々のご尽力に、ただただ感謝のほかはない。とりわけ肺葉切除をはじめ五回も手術をうけ、時には生死の境をさ迷うなどしてきた私を、七十年近くも支えて来てくれた家内には終生頭が上がらない。直接感謝するのは、まだ気恥ずかしいので、そっと書き留めておく。

昨日は麻生OB会の役員会があったとかで、近くの野見山真澄さんが当日の資料を届けてくれた。その中に最近亡くなった会員の名簿がある。総員二十五名中十三名は生前会話を交わした方々で、改めて驚いたことである。

名簿を頼りに故人を偲ぶこととする。

栗原義則さんは、私が文書課勤務最初の昭和三十四年、九州工業大学卒の採鉱係として入社した温厚な好青年であったが、炭坑の閉山後は慣れぬ職場に配転され少なからぬ苦労をしたのではあるまいか。晩年は入退院を繰り返すなど、病床生活が多かったように聞いている。 かつて出張で上京してきた彼と、東京支社で会話を交わしたのが最後となったのではなかったか。

上田橋 実さんは吉隈炭鉱採鉱係をしていたが、炭坑部門縮小に伴い、大阪府堺市の生コン工場へ転出してもらった。晩年は元職組の組合長をされていた久田 行さんとともに、三重県名張市に住んでいたようで、二人で杯を交わしながら炭坑の思い出話をしていたが、久田さんが亡くなられて、すっかり寂しくなりましたという便りを頂いたこともあった。炭坑生まれの炭坑育ちで、都会の暮らしにはずいぶん苦労されたことと思われる。

原田醇之介君は昔岳下炭坑の総務主任をされていた原田醇(すなお)さんの長男で、長年飯塚病院のレントゲン技師として勤務されていた。若いときは本社労務課に居た林一人君と親しくしていたようだ。後年、OB会の役員としてずいぶんお世話になった。昨年飯塚病院の外来で偶然出会い言葉を交わしたのが最後となった。昭和二十二年、私が職組の役員をしていたとき、岳下炭坑の僻地手当について、実情を見てくれというお父さんの要請で岳下炭坑へ視察に出張したことがあった。

岳下炭坑は長崎県北松浦半島の僻地にあり、従業員の子弟は中学までは自宅から通学出来るが、高校は佐世保市内まで行かねばならない。しかし然るべき交通機関がなく、手前の小佐々町の農家を借りて、そこを学生寮として通学させるなど、他の事業所に比べ、父兄の経済的負担は少なからぬものがあった。当時、原田君も他の職員の子弟何人かとその寮から佐世保の高校へ通学していたようで、お父さんがその粗末な学生寮を見せるべく私を案内してくれた。

 岳下炭坑の車で寮に到着したのは午前十時頃で、入寮者は登校した後だったが、寮生の寝室は万年床よろしく蒲団は起き抜けのまま、食卓の上には朝食に使用した鍋・釜・茶碗などの食器が散乱している。遅刻せぬよう慌てて登校した痕跡がありあり。「子供たちだけでは、何時来てもこの有り様で・・・」

と、お父さんがこぼされていた。 後年OB会の席で醇之介君にこの話をしたら、

「もうその話は勘弁して下さいよ」

と困惑苦笑していた。 その時の彼の人の良い表情が蘇り、亡くなったなど、まだ信じられない気持で居る。

三原陽一君は健康保険事務に堪能な社員であったと記憶している。たしか原田富平さんと同じ出雲の出身で、原田さんが亡くなられた後も、しばしば島根県の原田さん宅を訪れ墓参して居たようで、その都度原田さんの奥様のご様子など知らせてくれていた。温厚な人柄でOB会にも毎年出席していたが、私が出席出来なくなり、会話を交わすことも無くなった。 毎年頂いて居た年賀状が今年は跡耐えてどうされたのかと気になって居たが、昨年一〇月に旅立たれたと、今回の名簿で知ることとなった。

今年の名簿で一番驚いたのは小林健一君である。小林君は田川工業高校昭和三四年卒で、私が文書課勤務のときその採用選考に立ち会い、彼の自宅に身元調査に出向いた思い出がある。私は昭和四十四年、嘉麻運輸㈱に転出、四十六年に上京したので、その後彼のことは忘れていた。平成二年、私はそれまでの仕事を引退、飯塚に引き上げてきた。平成八年、麻生太郎代議士の選挙の折、麻生OB会会長として選挙事務所に詰めていたある日、私の前に現れた男性が「私が分かりますか。入社のときお世話になった小林です」と言う。二十年ぶりの再会で、本人が自己紹介するまで、分からなかった。かっての紅顔の少年も、白髪混じりの初老の姿に変貌している。あまりの懐かしさにしばらく昔語りなどしたことであったが、あのまだまだ元気そうな彼が昨年十一月に亡くなったとは・・・。今回の名簿の中でも一番若い旅立ちであったのではないか。社内結婚された奥さんの嘆きが想われ、感慨ひとしおのものがある。

伊藤昭一郎さんはたしか昭和二年生まれ、東大卒の容姿端麗・頭脳明晰の俊才であった。営業畑一筋で常務取締役まで上り詰められたが、私とは畑違いで在職中さしたる交流もなかった。ただ一度、私がサンケイビルにあった日本エグゼクティブセンターに在職して居たとき、当時フォームクリート社長をされていた伊藤さんに招かれ、居酒屋で杯を交わしながら懐旧談したことがある。伊藤さんからも毎年頂いて居た年賀状が今年は頂けなかったので、どうされたのだろうかと思って居たが、名簿によると今年一月に亡くなられたとのこと。毎年、自筆の添え書きのある賀状を楽しみにしていたが、もう拝見出来なくなったのだ。また一段と寂しい思いである。

川上憲司君は長年麻生本社の乗用車のドライバーを勤め、私も在職中幾度となくお世話になったものである。本社乗用車のドライバーは誰方が採用選考されていたのか知らないが、みなさん優秀な人ばかりであった。その頃川上君が一番若かったように記憶しているが、寡黙な人柄で、彼が運転しているときは、後部座席から話しかけるのも躊躇われる厳粛な雰囲気が感じられたものである。後年、私はすでに現役を引退している身であったが、ある日、麻生の福岡事務所に立ち寄り、旧知の人たちとの歓談を終え、飯塚の長男宅へ戻るべく表に出たら偶然川上君に出会った。二十年を超える久しぶりの再会で、びっくりしたが、あの無口な彼の方から

「佐藤部長さんじゃないですか。今からどちらへ」と声を掛けてきた。

 「飯塚の息子のところへ帰るところよ」と応えると 「それじゃあお乗りになりませんか。私も飯塚へ戻るところですから」と車のドアを開ける。

 今では社外の人間になった身で、会社の車に乗るのは気が引けるが、 「人を送ってきた帰りの空車ですから・・・」と勧められ乗せて貰うことにした。

久しぶりの懐かしさからか、運転している彼の方から話しかけてくる。「会社もずいぶん変わってしまいましたよ。昔は部長さん課長さんと呼んで居たものですが、このごろは若い社員が部長職や課長職の人に向かって誰々さんというようになりました。上下の交流を良くするためとか言うことのようですが、私などは聞いていて気持ちのいいものじゃないですよ」という。 私も最早時代後れの老骨となったと自覚を余儀無くされているところだが、まだまだ若いと思っていた川上君も時代後れの仲間入りかと苦笑したことであった。名簿によると今年二月に亡くなったそうだが、今一度無口な彼の話を聞きたい思いがしてならない。

今年二月亡くなられた木本正美さんは昭和五年三月生まれだから享年八十四歳ということになる。男性の平均寿命が七十九歳余と言われているから、長生きの部類に入ることになる。しかし木本さんはもう十数年前から癌を患い、闘病生活を続けて来られていたことを思えば、よくぞここまで頑張って来られたものと感嘆のほかはない。 木本さんは昭和二十八年、旧制九州大学最後の卒業組の一人で、営業畑勤務から常務取締役まで上り詰められた温厚な秀才であった。彼が闘病生活をしていることを知ったのはいつ頃のことであったろうか。模範的患者として細心な養生努力により、闘病中にも拘らず明るい笑顔でOB会にも出席し、ジュースのコップを抱え、かっての同僚と談笑していた姿が忘れられない。意志の強さは生来のものであろうが、それに加えて熱烈なキリスト教信者であることを後日伝え聞き、改めてその人生に感服したことであった。 彼の教会での講話集を送って頂いたこともあり、いい加減な日々を過ごしている私は、敬服のほかはない。 教会の信者の賛美歌に送られ安らかな昇天であったに違いない。

芳賀常喜君も今年二月に旅立ったとのことだが、昭和七年十一月出生と聞いているから享年七十九歳、日本男性の平均寿命となる。在職中は健康保険や労務内勤事務をしていたように思うが、詳細は記憶していない。麻生OB会の思い出文集には、石炭部門の終焉期、労務担当者として、故野見山芳久さんとともに苦労したことなど記していた。退職後は飯塚市伊川地区の自民党の世話人として、麻生太郎さんの選挙の折には、ずいぶんと走り回っていたようである。まだまだ元気で次の選挙でも、活躍が期待されていたのに残念でならない。

伝法 健さんは、昭和二十年上川緒炭坑での新入社員実習仲間である。もっとも彼は東北大学工学部出身のエンジニアであったから、行動をともにすることはあまり無かったように思う。実習生の入る報国寮でも、彼は貴島 隆・大羽八郎・秋葉圭五さん等勤勉家ばかりと同室で、われわれ凡俗には近寄りがたい雰囲気があった。実習後は芳雄製工所や本社生産部に勤務していたが、秘書課の才媛井上女史と結婚、理想的なエリートの生活をしているようであったが、昭和三十四年東京樹脂㈱に転出した。彼が麻生にどういう縁があって入社したのか、またどういう事情があって東京樹脂に転出したのか知らないが、彼の能力を発揮するには、些か所を得なかったのではなかったかと思われる。本人はどう考えておられたか分からないが、ときに深酒することもあったようで、いささか不遇な人生ではなかったろうか。晩年はどのような人生を過ごされたか分からないが、安らかな終焉であってほしいと願うばかりである。

 

ramtha / 2014年11月28日