高見町の製鉄所官舎の東端に続いて高見小学校があった。わが家が小倉に転宅するまで、姉も兄もこの小学校に通っていた。私はまだ学齢前だったが、兄や姉に連れられてそこの運動場によく遊びに行ったものである。だだをこねて買って貰った三輪車に乗って広い運動場をグルグル回ったり、運動場の片隅にある遊動円木に跨って遊んだりしたことを覚えている。
昭和初期の地方の小学校ではあったが、製鉄所の高等官官舎の子弟が多数通学していたせいか、今から考えてみると設備はよくしてあったようである。肋木や鉄棒、砂場などもあり、放課後や日曜日などは子ども達が集まってきて肋木によじ登ったり、砂場で相撲をとったり、軟式テニスのボールを使ってのベースボールやメンコ(私達の所ではブチコとかパッチンとか言った)、輪回し(一般には何と言っていたか定かではないが、自転車の車輪の溝に竹切れを当てて転がして行く遊び)など、いろんな遊びをしているのが見受けられた。
子どもの服装は男の子は学童服(冬は黒の木綿、夏は霜降り)が相当見られたが、女の子はまだ和装が大半で、まれに洋服を着ている子は高等官官舎の子女であったようである。女の子が着物の裾をからげて縄跳びや石蹴りをしている風景が思い出される。
運動場の向こうは小高い丘になっていて、小さなお寺があった。花祭りの日であったろうか、姉に連れられて行って甘茶を飲ませて貰ったことがあった。いつもは淋しいお寺の境内に、沢山な人が次から次へとのぼってきて、本堂から流れ出る香の煙に包まれながら、尼さんのついでくれる甘茶を有り難く頂いていたようだから、宗旨は分からぬものの尼寺であったのだろう。わが家は両親ともクリスチャンであったので、おそらく姉の友達に誘われて、甘茶ほしさに子ども達だけで行ったのだろう。
寺の境内の、脇の小径を上って行くと右手は墓地、左手の下に古い祠のような小屋が見え、道は上に登るにつれてだんだん細くなっていたが、その先は灌木の生い茂る中を戸畑へ通じる道となっていたかと思う。
あれは樹々の緑が鮮やかに生い茂って、道端の紫陽花の花に雨が降り注いでいたので梅雨時のことであったろうか。父に連れられてその坂道を下っている時、ひょいと下を見ると、うす暗い祠の中で白髪の老婆が青白い顔をした若い男の人と向かい合って正座し、なにか呪文のようなものを唱えているのが見えた。見られぬ異様な光景であったので、父と二人でしばらく立ち止まって様子をうかがっていると、突然お婆さんが中腰に躍り上がるような仕草をしたかと思うと、「カーッ」と大声をあげて青年の肩を掴んだ。すると気合いを入れられた青年は崩れ落ちるように前に突っ伏して動かなくなった。
今考えると一種の催眠術をかけていたのかも知れないが、その時の私は何か分からぬまま、ただものすごく恐ろしく思わず父の服にしがみついていた。
その事があって以来、尼寺のあるその丘は子ども心に何か妖怪変化でも棲むような恐ろしい所に思われて、ついぞ行ってみようとはしなくなった。あおの怖いお婆さんは、祈祷師の類ででもあったのだろうか。尼寺とどういう関係にあったのだろうか。今となってはすべては分からない。子ども心にやきついた恐ろしい光景だけが思い出される。(昭和五十四年)
ramtha / 2011年4月24日