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第八話「西原町の餓鬼大将」

荒生田のわが家は南が田圃に面し、日当たりのよい家であったが、この家で姉愛子と妹ルツ子が相次いで病死したことのショックが両親に転居を決意させたのか、この家を売却して、小倉市西原町の借家に引っ越していった。
しかし今にして思えば、私をはじめ子ども達の相次ぐ病気、入院、葬式で家計はとみに苦しくなり、折角建てたばかりのマイホームを手放さなくてはならなかったのではあるまいか。その時の父母の辛さはさぞかしと今でこそ思いやられるが、当時幼子の私はただ環境の変化を面白く感じたに過ぎない。しかし子ども心にも荒生田の木肌も新しい家に比べて、随分と古くくらい家だな-とは思ったが、別に貧乏くさいとか、侘びしいとかいう感じはなかった。むしろ田圃の中の隣近所もあまりない今までの家に比べて、今度の家は小倉工業学校の近くの住宅地にあって、同じ年頃の子どもが隣にも向かいにもいたので忽ち友達ができた。
今の子ども達の遊び仲間にも餓鬼大将のようなリーダーがいるのかどうか知らないが、私が幼かった頃は、それぞれの地域の子どものグループには、大抵小学校高学年の喧嘩に強い男の子が一人、ボス(当時は餓鬼大将と言っていたが)として君臨し、そのボスを中心に遊ぶ習慣があった。そうした子ども達のグループには、あたかもヤクザの縄張りのように、それぞれのグループにはテリトリーがあって、他の町の子がこのテリトリーの中に入ってくると、何の理由もなくいじめられたりした。
そういう子ども達の喧嘩は毎日のようにあったから、他の町の子にいじめられないようにこんなグループができていたのかも知れない。いずれにしても餓鬼大将は、そのグループでは全くの専制君主であり、その日その日の遊びは彼の気持ち次第であった。戦争ごっこでは彼は常に指揮官であり、チャンバラでは何時も格好いいヒーローであり、草野球ではピッチャーで四番バッターとなる。他の者は彼の命ずるままに賊になったり、彼に切られて路上にバッタリと倒れたりしなければならなかった。しかしグループの子が他のグループの子にいじめられたりすると、ボスは飛んでいって相手の子をやっつけてくれる頼もしい親分でもあった。
西原町の遊び仲間は、中学一年生の男の子をボスに、二十人ばかりのグループであったと思う。その頃は小学校も大抵一年生から男女クラスが別になっていたし、地方によっては男子校、女子校と学校まで別になっていたものである。だから校外での遊びでも、男女が一緒に遊ぶのは学齢以前までで、小学校に上がってからは殆ど一緒に遊ぶことはなかった。男の子はみんな地域の餓鬼大将グループに入って男の子ばかりで遊んでいた。私はまだ学齢前であったので、午前中は同年位の近所の女の子と遊んだりしたが、午後になって小学校の餓鬼仲間が三々五々集まる頃になるとその仲間に入れてもらった。
初めは、まだ学校に上がっていないからと言うことで、相手にされなかったが、ボスの「まあええ、かててやれ」という鶴の一声でメンバーに加えて貰うことができた。私は彼らと一緒に稲刈りあとの田圃でチャンバラをしたり、凧揚げをしたり、たき火をして遊ぶ時、急に自分が大きくなって、午前中に遊ぶ同年の友達よりなんだか偉くなったような気がしたものである。
中学一年生のそのボスは、父親が死んでしまったのか母親と二人暮らしで、母親が毎日働きに出かけ、暮らし向きも余り楽な方ではなかったようだが、時には自分の小遣いで焼き芋を買ってみんなにおごってくれたりしたこともあった。なかなか面倒見のよいところもあって、一番幼かった私にはいろいろと気を配ってくれたりした。
工業学校の裏を日豊本線が走っていた。当時はまだ単線で列車の通る回数も少なかったが、そのレールの上をどの位歩けるかみんなで競ったりした時など、二、三歩行くとすぐレールから落ちてしまう私の手を持ってくれるような優しいところもあった。
母は私が彼らと一緒に遊ぶことを快く思っていなかったようだが、私は母の目を盗んでは彼らの仲間となって遊ぶことが楽しくてならなかった。
今時の子ども達は、学習塾に通ったり、お稽古事で忙しいのか、昔のように近所の子どもが大勢集まって遊ぶところなど見かけないようだ。ことに年齢が違う子ども達が一緒になって遊ぶことは無いのではないだろうか。昔は毎日近所の子どもが集まって遊ぶことの中で、年上の子からゴム銃や竹トンボの作り方、凧のあげ方、独楽の回し方など、いろいろの智恵や曽比方を習ったり、遊ばせることなどを身につけて行ったように思われる。
またその頃は一家に子どもが五、六人も居るというのは普通であったから、遊びに集まって来る子ども達の中には、赤ん坊を背負わされている子も一人や二人必ずいたものだが、そういう時はその赤ん坊をみんなで代わりあって子守した。中には子守を嫌がる者がいても、ボスの一喝でしぶしぶ子守をしたものである。中学校一年生の餓鬼大将が、レンゲ草の花の敷き詰める田圃に赤ん坊を寝かせ、慣れぬ手つきでおしめを取り替えてやっていた情景が今も鮮やかによみがえって来る。(昭和五十四年)

⇒第九話「到津の往還」
 

ramtha / 2011年4月23日