小倉に帰省して十月に徴兵検査を受けたが、判定は第三乙種であった。平時の徴兵検査では、甲、乙、丙の三段階で、甲種合格のものだけが現役入隊し、乙種は補充兵、丙種は不合格で兵役免除ということになっていた。しかし、日中戦争の頃から、兵員不足を補うため、第二乙、第三乙が設けられたものらしい。
昔は眼鏡をかけているだけで、丙種とされたものだと聞いた事があるが、私の時は第二乙までを現役、第三乙は補充兵とされたものの、現役の者と一緒に召集入営入営させられることとなった。
(出征時に撮った家族の写真)
昭和十八年十二月一日、朝からチラチラと粉雪の舞う寒い日、母に送られて、福岡舞鶴城内の西部四十六部隊に入隊した。
当時入隊した三千人ばかりが、城内練兵場に集合させられて、入隊直前の健康診断を受けた。どのような検診であったか定かな記憶はないが、ごく簡単なもののようであった。その検査の結果、私を含め五十人ばかりが、再診に回され、軍医の前に連れていかれた。
テントをめぐらした中にいる軍医は、一人一人呼び入れては診察している。順番を待っている群れの中で「即日帰郷で入隊しなくても済むかもしれんぞ」とささやいている者がいる。そんな話し声が私の心を乱して、何となく落ち着かない。
そのうちに自分の番が回ってきた。名前を呼ばれて軍医の前に出る。軍医は聴診器をあてて、簡単な診察をした後、あばら骨もあらわな私の上半身を見ながら
「その身体で軍隊生活に耐えられると思うか。」と尋ねる。
この期に及んで「耐えられません」などと言えるものではない。私は両足を踏ん張って「耐えられます。」と勇ましく応えた。
軍医の診察の結果、三十数名の者が即日帰郷となって、そそくさと帰って行ったが、私を含め二十名足らずの者は、結局当日入隊の数に加えられることとなった。その時はちょっとガッカリしたような、また安心したような変な気持ちであった。
入隊と決まると、直ちに支給された粗末な軍服に着替え、家から着てきた私服はまとめて、付き添いの家族に持って帰って貰う。家族の者達が、振り返り振り返りしながら、立ち去る後ろ姿を見ながら、我々は営門をくぐったが、それが娑婆との別れであった。
(注)即日帰郷=旧日本軍で、入営時の身体検査で、軍務不適とされ即日郷里に帰されること。
(注)娑婆(シャバ)=自由を束縛されている軍隊・牢獄・遊郭などに対し、その外の自由な世界。俗世間。
ramtha / 2015年6月24日