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第十五話「安川家のハンカチ」

私の通学した明治小学校は当時、明治鉱業や明治紡績安川電機などの企業を経営していた、安川・松本財閥よって設立された、その頃としては珍しい私立の小学校であった。だから生徒の大半は安川・松本一族の子弟や明治鉱業など参加企業の社員の子弟であったが、明治専門学校(これも当初は安川グループが設立した四年制工業高等学校であったが、後に国に寄付され、その頃はすでに官立の専門学校となっていた。現在の九州工業大学の前身である)の教職員や、当時戸畑周辺の企業、日本水産、旭硝子の社員など安川グループ外の子弟も少なくなかった。西南女学院の教師を父に持つ私も部外者の一人であったわけである。
それはともかく、安川一族のどなたの発想から生まれた学校なのかしらないが、今から考えてみると、私立の小学校として幾多の特色があったように思われる。
まず第一に一学年一クラス、クラス定員三十名制であった。だから全校で六クラス、校長先生以下たった七人の先生と全校生徒百八十名という、まことにこぢんまりとした小学校であった。したがって先生も生徒も、みんなお互いに全員の顔と名前だけでなく、およその人柄も知っていたようだ。
第二に、あれは確か三時間目の後だったと思うが、毎日全校生徒が雨天体操場(今風にいえば体育館)に集まり、上半身裸になって「自彊術(じきょうじゅつ)」という体操をした。また昼食後、再びその体育館(と言ってもトタン葺き、障子、板張りの粗末なものであったが)に集合し、朗読、お話し、研究発表、独唱、合唱などのミニ学芸会が行われた。
その他数々の特色ある教育行事が行われたが、その一つに毎月一回、ワラジ履きでの遠足があった。一・二年、三・四年、五・六年というように二クラスずつで、それにそれぞれの学齢に応じて、二十キロ、三十キロ、四十キロという距離の遠足が行われた。弁当は梅干しのおにぎりで、菓子類の持参は許されなかった。
その頃は今のような車社会ではなかったから、戸畑、小倉、八幡と言った現在の北九州市内でも、小学生がゾロゾロ歩く遠足にも危険はなく、また乗り物を利用する事も無かった。
黄一面に菜の花の咲き乱れる田圃道を歌いながら行進したり、大声をあげては山彦を聞きながらの山登りなど、ただひたすら歩く遠足だが、子ども心も浮き浮きするほど楽しいものであった。例外としては毎年五月に行われた全校生徒合同の芦屋遠足は、戸畑駅から遠賀川駅まで汽車を利用し、また菓子果物の携行が許されていたので、格別楽しい行事であった。
五・六年生は秋に修学旅行として太宰府または耶馬溪行きがあった。この時も汽車の旅であったが、日頃滅多に交通機関を利用することの無い当時の私達にとって、こんなに楽しいことはなかった。私が六年生の時は耶馬溪旅行で、中津駅で軽便鉄道に乗り換え、山国川に沿って上っていったが、あの鉄道も廃線となってしまったのだろうか、現在の鉄道地図には見あたらない。
菊池寛の小説「恩讐の彼方」で知られる青洞門や、崖の上に五百羅漢の並ぶ羅漢寺などを見学し、山国川の河原で昼食休憩となった。それぞれ仲の良い友達と弁当を食べ、河原の石を投げたりして遊んでいたが、集合時刻になり、整列してみたら一人たりない。先生が点呼をしてみると、五年生の安川国雄君である。彼は安川家の御曹司で、勉学、スポーツ、素行のすべてにおける模範生で、集合時刻に遅れるなど考えられない生徒である。先生もどうしたことかと首をかしげていたが、なかなか現れない。先生が辺りを捜し回って、やっと連れ戻ってきたとき、彼には珍しく、しょんぼりとうなだれていた。どうしていたのだろうと、不思議に思ったことだったが、後で聞いたところでは、河原で遊んでいる内にハンカチを落としたことに気がついて、それを一生懸命捜していたらしい。一般に物が乏しく大事にした時代であったが、ハンカチ一枚ぐらい無くしても、庶民の私達でもそれ程までには気にしないのに、安川家の御曹司が、集合時間に遅れてべそをかく程に捜し回っていたということは、安川家のしつけの厳しさがうかがわれ、子ども心にも少なからぬショックであった。
後に安川家については、こんなことも聞いたことがある。安川財閥の創業者である安川敬一郎翁が、お孫さんを連れて別府の別荘へ行かれた折、別荘の執事が出迎えのため別府駅の二等車停車位置(当時の日豊線は、二、三等編制であった)で待っていたが、下りてこられないので、どうしたことかと心配していると、翁は三等車からトコトコお孫さんの手を引いて下りてこられた。「どうして三等車で」と執事が尋ねると「わし一人なら二等車に乗るが、今日は孫が一緒だから」と応えられたということである。
ずっと後になってからであったが、私達の担任であった藤井先生から、こういう話をうかがった。先生は明治小学校に赴任した最初の正月、私立小学校に奉職する者の当然の礼儀と思い、学校の設立者でもあり、理事長でもある松本健次郎氏宅へ新年の挨拶に伺った。その時は機嫌良く年賀を受けられたが、理事長は後日、先生に「年賀は今年限りにして下さい。本来年始に伺うべきは、生徒の父兄である私の方です。先生からさきにご挨拶をいただくのでは礼儀がたちません」と言われたそうである。
二つの話は伝聞に過ぎないが、ハンカチ一枚を捜し回っていた国雄君の姿を思い出す度に、安川家の家風をうかがわせる挿話として、むべなるかなと思われてくる。(平成二年)
【追記】 その頃安川一族の男の子は、おおむね明治小学校、小倉中学、一高、東大で学び、それぞれ外交官、弁護士、学者、医師など安川財閥外の社会で活躍された方が多かった。松本健次郎氏の令息七郎氏は、慶応で国際法を専攻、大学教授から後に社会党代議士として活躍されたが、そのように、敢えて親の七光りの外に飛び出し、自分の実力で勝負することは当時の安川家の家訓であり、一族のプライドであったのではないかと思われてくる。

第十六話「教育ママ」⇒https://trigger110.net/archives/1068

ramtha / 2011年4月15日